学校周辺の史跡 その9 ~橋之口城

公開日 2021年09月04日(Sat)

橋之口城

 実は本校の場所そのものが,史跡です。上図のように,室町時代の島津氏の拠点だった「清水城」(現清水中学校及びその北側の山地)の支城の「橋之口城」(現在の住所表記で,東坂元3丁目の地域。)だったのではないかとされています。

 現在本校のある葛山、東坂元3丁目の地域は、室町時代には橋之口城と呼ばれ、清水城(現清水中の裏手)北側の「搦め手口」(城の裏門)にある山城です。名称は実方橋に因むのではとされます。
 清水城は、1387年島津家7代元久が築き、以後14代勝久に至る約160 年間、薩摩・大隅・日向の守護の拠点として鹿児島本城と言われました。平城と山城で構成された清水城の城下には、武家屋敷や寺社・町屋がひろがり、かごしまの町(上町地区)の発祥となりました。山城部分は、北側を吉野台地と堀切(空堀)で区切られ、東側は稲荷川に沿う断崖で、西側は鼓川の広い谷で守られています。台地を東西に分ける堀切は、東側の主曲輪群を防衛するとともに、通路としての役割をもつ壮大な空堀となっています。平城部分には、守護所としての屋形があり、正面十二間(約21m)の巨大な御主殿や御前様屋敷・厩(馬屋)などが建っていました。1550年、15代貴久が内城(現大龍小学校)を築いて居城としたため、清水城は空城となりました。屋形跡には大乗院が建てられましたが、1869年に廃仏毀釈で廃寺となりました。現在は清水中学校となっています。

清水中と本校の位置

 こうしてみると,両者の位置関係がよく分かります。島津氏はふだんは屋形(現清水中)で政務を執り,いざ合戦となれば,裏手の山城にこもります。橋之口城はさらにその北側にあたり,裏門を守る位置にありました。本校のある場所が,島津氏の歴史に関わっていたことが分かります。

 その後島津氏は15代貴久の時に,内城(現大龍小学校)に移り,その後18代家久(薩摩藩初代)の時に鶴丸城を造って移ります。