公開日 2022年01月06日(Thu)
1.るり晴天の 大空に 光りて昇る 朝の日の 輝く知識 求む子の ああ わが母校 西紫原中学校 | 2.錦江湾の とどろきて 絶ゆることなく 打つ波の 生きぬく力 つくる子の ああ わが母校 西紫原中学校 | 3.火を噴く山の 桜島 天の柱と 立つ煙 理想を高く かかぐ子の ああ わが母校 西紫原中学校 |
当校HPによると、西紫原中学校は、昭和54(1979)年に紫原中学校を母体にして、南中学校の一部を吸収して、鹿児島市立西紫原中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は椋鳩十、作曲は鎌田範政です。椋鳩十氏は前回触れました。
←作曲:鎌田範政氏
鎌田氏は、昭和22(1937)年に鹿児島市で生まれ、鹿児島大学卒業後、県内の小・中・高校教諭を経て鹿児島大学教育学部に着任され、のち同大教授を務められました。県音楽教育連盟会長、日本教育音楽協会鹿児島支部長、県少年少女合唱連盟理事長などを歴任され、30年間にわたって鹿児島市立少年合唱隊の指揮者を務めたほか、南日本音楽コンクールや南日本ジュニアピアノコンクールの審査員長も務められました。平成20(2008)年度地域文化功労者文部科学大臣表彰、11年度県民表彰されました。平成26(2014)年死去されました。77歳でした。
さて歌詞についてですが、前回の紫原中の回でも紹介しましたが、椋鳩十氏は綿密に取材ノート(椋鳩十文学記念館所蔵)を残しています。特に当校については8枚もあります。
2枚目に学校像(1創造、2健康、男子(?)、明朗、3協力)、生徒(真理創造、心身鍛練、相互敬愛)とあります。椋氏が当校を訪問した際に、学校側から聞いた学校像と生徒の教育方針ではないかと思います。
2枚目を除く、1~8枚目は校歌の歌詞の推敲の過程を示しており、後半になるに従い完成原稿です。8枚目(下掲)は「西紫(原)中学校々歌」と表題が付いており最終案です。
1枚目には「るり晴天の大空に」とあり、現校歌の1番1節目の歌詞が早くも現れ、最初の着想を活かした格好です。錦江湾、桜島を使う構想も最初からあったことが分かります。瑠璃色は紫味がかった青色で、空の形容に使われるので、校名と大空に掛けて、椋氏のイメージにぴったりだったのだと思います。
1番2節も「輝く朝の日の光り」「朝日大きくのぼりたり」と現校歌とほぼ同様で、7枚目に現校歌と同じ歌詞が完成します。1番については最初から構想がほぼできていたようです。
1番3節の「輝く知識もとむ子の」は、2番にあった「知識」が1番に移り、6枚目で完成します。
1~3番4、5節の校名での締めくくりの部分は、語順で悩み、7枚目に現行の形に落ち着きました。
2番は初めは錦江湾の海底を詠もうとしますが、6枚目からは波に変わり、8枚目に2番1節「錦江湾のとどろきて」、7枚目に2番2節「絶ゆることなく打つ波の」で完成します。
2番3節「生きぬく力つくる子の」は3番から移り、6枚目に完成します。
3番1節の「火を噴く山の桜島」のフレーズは4枚目で完成し、途中「火をはく」と迷いますが、紫原中と同文を避けるためか、元に戻します。
2節の「天の柱と立つ煙」は6枚目に完成しますが、天の柱がどういう意味かが謎です。日本神話の天御柱(あめのみはしら)か、自然現象のサンピラー(太陽柱)、光茫、日足などかと思いますが、ここでは素直に桜島の噴火の様を表現していると解釈した方が良さそうです。椋氏ならではの独自表現かと思います。
3節「理想も高くかがく子の」は1番から「理想」を移して6枚目で完成です。4・5枚目で悩み、6・7枚目でほぼ完成させたようです。5枚目には、何回も推敲した跡が見られます。