東高校の歴史 その4

公開日 2022年03月12日(Sat)

大農芸時代

 昭和25(1950)年に,吉野・伊敷・紫原3地区にまたがる鹿児島市立鹿児島農芸高等学校が誕生しました。これは鹿児島市高等学校組織改編によるもので,吉野分校が中心校とされました。のち伊敷地区で同名の学校が出来るので,区別するために,仮に大農芸高校,大農芸時代と称することにしたいと思います。

原田校長顔   久保校長顔
 本校は同年5月に独立開校記念式典を挙行し,7月には校章が制定されました。吉野分校校長は初代原田誓之氏(大口高校から転任。昭和25~28年度),2代久保政司(県教委主事から転任。昭和29~31年度)であり,伊敷教場校長は酒井清氏でした。吉野分校は昭和29年に農業別科を募集停止となり,翌30年に家庭科定時制が新設されました。伊敷教場は28年に伊敷分校となり,30年には家庭科が新設されました。
 それでは,『創立記念誌』から当時の様子を見てみたいと思います。
 井上洋逸(昭和27年定時制農業科卒(吉野),同窓会長)「おもいで」(30-p.78),同「難儀無くして実りなし」(50-p.88)によると,井上氏は終戦の年14歳で,伊佐農林高校の1年生だったが,昭和23年4月から農業科定時制週4日出校の学校が出来るという朗報が入りすぐに飛びつき,その時の嬉しさは忘れられなかったとのことでした。教科は蔬菜部,園芸部,畜産部等があり,最初の1・2年は蔬菜部を選んだ。授業の大半は実習作業で,堆肥の増産,作付け,管理,除草,間引き等で,品評会や販売等も地区ごとの農協や学校で行った。白菜植え付けで,灌水作業はとても大変な作業だったとあります。後半3・4年は園芸部で勉強したそうです。菊作りでは用土作りが基本で,山に落葉拾いに行き,堆肥舎で発酵させ用土が出来る。灌水・施肥・薬剤散布・摘芽・摘花・大菊・懸崖作り・枝作り等一年がかりだそうです。卒業後花市場協同組合に3年半勤め,園芸家として自立したそうです。
 中森重喜(昭和28年3月鹿児島農芸高校卒(吉野))「四十年前のスケッチブックから」(40-p.89)によると,昭和24年に鹿児島高等学校第四部吉野分校本科に入学。当時県立養護学校(旧所在地で,現吉野いきいき公園)のある所で,正門入るとドラセラの木,黄金ヒバ,桜の木,白ツメ草の花が咲く素晴らしい環境だったそうです。授業は国社数理英,農業関連科目で,特に英語・数学は基礎基本を十分理解しないまま進学した者にとっては大変だったそうです。実習では中森氏は花卉を選び,温室で,ゼラニューム,シクラメン,洋ランなどがあり,作業はピンセットを使っての仮植・移植・水かけ・用土作りだったそうです。普通作の実習で馬車を利用し,畜産の実習では,にわとり・羊・痩せ馬・豚の世話を行い,蔬菜の実習では白菜・キャベツの植え付け・灌水・施肥等をしたそうです。下の写真は丹精込めて1年掛けて作った菊でしょうか。

中森40-89
 江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和25年鹿児島農芸高校紫原分校ができ,生徒数80名,3教室が新設され,仮教室と併せて6教室になったそうです。当時は生活に追われ,昼間学校に来て勉強できる者は少なく,教師は夜生徒の所に行って各地区の公民館(当時は青年舎,クラブ)で夜間授業をしたり,食料事情も悪い中,校長自ら先頭に立って生徒の教育に当たられたそうです。当時百名以上の生徒が維持できれば独立校として認めるという市の意向だったが,80名にとどまり,昭和27年に廃校となり,在籍の生徒達は吉野の農芸高校や鹿大教育学部附属高校(伊敷)他に転校したそうです。下の写真は以前出しましたが,鹿児島農芸高校紫原分校の写真です。

紫原2
 上山佐五次(旧鹿児島農芸高校教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和25年吉野,紫原教場は統合され,鹿児島農芸高校となり独立し,鹿児島教場は鶴丸高校の定時制として併設されたそうです。青年師範学校附属校(伊敷)は青師が鹿大教育学部に編入,昭和26年募集停止となり,鹿児島農芸伊敷教場として新出発となり,上山氏はその分校主事となったそうです。特色として登校しない日を有効活用するために,「ホームプロジェクト」を採用しました。それは親を地主として土地を借り受け,自ら栽培設計して,教師のアドバイスを受けながら家庭実習を行い,教師は各家庭を巡回指導し,生活指導・進路指導を行うというものでした。久保校長の経営手腕により進展し,園芸振興のセンター的役割を果たすべく施設設備の近代化,技術指導者の招聘,愛知・静岡の先進地への派遣等実績を上げたそうです。

heiwajoyaku(写真)平和条約締結
 昭和25年には朝鮮戦争が起こり,特需景気がもたらされ,26年サンフランシスコ平和条約が調印され,翌27年に発効し,日本は占領期間が終わって独立国家としての主権を回復しました。28年にはテレビ放送が始まり,30年には保守合同で自民党が誕生し,55年体制がスタートしました。31年には日ソ国交回復し日本の国連加盟が認められ,経済的には「もはや戦後ではない」と言われ,神武景気となりました。こういった戦後再出発の時期に,「大農芸時代」としておよそ7年間,鹿児島の農業教育を担っていたと思われます。