東高校の歴史 その5

公開日 2022年03月15日(Tue)

園芸・農芸時代

 昭和32(1957)年吉野地区に鹿児島園芸高等学校が出来ました。伊敷は,園芸高校分校となり,34年に鹿児島農芸高校として独立しますが,40年に統合されます。この時期を仮に,「園芸・農芸時代」としたいと思います。吉野の園芸,伊敷の農芸です。
 両校とも33年に創立10周年記念式典を挙行しました。園芸高校は久保校長が初代校長となり,36年退任し頴娃高校へ転任します。2代校長は川村純二校長(県社会教育課長から)です。川村校長は後で鹿児島東高校の初代校長にもなり,以後都合7年間勤めることになります。

久保校長顔  川村校長顔  川村純二

伊敷分校の初代校長は引き続き酒井清校長です。34年農芸高校として独立した後は初代校長は中園喜節校長です。同5月に独立開校記念式典を挙行します。39年に中園校長が退任(日新高校へ)した後は,2代奥哲香校長(大村高校から)です。40年3月に園芸高校に統合されその幕を閉じます。

中園校長顔  奥校長顔
 『創立三十周年記念誌』には,当時の新聞記事が多数掲載され様子が分かりますので,それを中心に見ていきます。

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(上写真)フランス菊の切花出荷の実習作業

 昭和30年年代前半は開設当初ということもあり,県下唯一の園芸高校として評価が高いです。鹿児島は気候高温に恵まれ,暖地に適した野菜・果樹・花卉の栽培や,畜産・農産加工等の技術指導に重点を置いている。観賞用の熱帯植物・造園熱も盛んだ。 100坪の温室で 100種類以上の珍しい熱帯植物を栽培している。生徒の9割は農家でその内半数は鹿児島市近郊で遠くは奄美・種子島等からも来ている。3~4反の畑地では普通のやり方では駄目で,程度の高い園芸を望み,卒業生の半数以上が自営を希望している。市は1人1万円支給,毎月10名ずつ1ヶ月,静岡・愛知等先進地域へ実習にやっている。就職先は観光事業・肥料・農薬・種苗・農機具・食品工業,将来は都市緑化や観光に期待している。切花販売では,男子生徒が生け花に熱中し研究している。植木市での苗木類は好評で,秋の菊花展示会は市の名物となっており,2000人以上の参観があるそうです。(西日本新聞S33.6.28)

1-2 園芸校章

(上写真)昭和34年相撲県大会 園芸高校初優勝 / 園芸高校校章 
 校内の樹木の種類の多さや珍しい植物や野菜等があり,観光バスのコースにもなっている。年間見学者3000人,1日 100人県内外から訪れる。一番力を入れているのは,菊の電照栽培で,温室3棟( 200㎡)に年3作で, 1.8万本が栽培されている。在学中先進地の福岡県糸島郡を視察した卒業生は 660㎡のビニールハウスで菊栽培している。市の補助金で昨年度は13人が視察に行った。果樹班は東桜島や吉野地区でみかんの根つぎを 600本して,今年は3000本予約ですでに 500本は送った。卒業生は自営,園芸方面に就職する者も多く,県・市の公園係,貸鉢業,造園業,観葉植物・造園・盆栽など,生徒の意欲は高く就職先も広がっている。(西日本新聞S35.4.9)

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(上写真)園芸高校 温室菊栽培の様子
 しかしながら30年代後半は農業教育全般に関わる問題が顕在化してきます。
 鹿児島市近郊では農業に見切りを付け,他の職場に就職する傾向が強く,農村は年寄りだけの留守番農業になっている。市内の農業高校では,男子の半数,女子のほぼ全てが農業以外に就職しているという。36年度鹿児島農芸高校卒業生77人の内,農業科(男子のみ)36人の半数は京阪神の鉄鋼関係,市内の中小企業の工員・事務員で,家庭科(女子のみ)41人の9割以上は阪神・北九州の会社で農業とは無関係の就職だ。鹿児島園芸高校卒業生73人の内,園芸科(男子のみ)44人農業自営が10人,県外17人,県内外の工員等17人で,家庭科(女子のみ)29人は農業以外の就職だ。若者は学校の指導方針とは裏腹に農業にソッポを向いている。卒業生は30㌃ほどの経営では食っていけないという。池松教育長は両校の必要性,産業教育のあり方を検討する必要があると述べた。(南日本新聞S36.2.2)

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 30年代半ばに農業高校の危機が言われました。昭和36年5月の鹿児島市教育委員会の鹿児島園芸・農芸の両高校を廃校にして,工業高校に発展的解消をするという構想を発表したのがきっかけです。農芸高校同窓会の陳情書,高校教職員組合や地元民の反対があり,農業高校論争となりました。背景として,ベビーブームによる生徒数急増への対策があります。県としては高校再編により高校新設,学級増で7月中に結論を出す必要があった。国は新設工業高校だけにしか 1/3の補助金を出さない方針だった。また当時農家・非農家の所得格差が広がり,農村人口の地滑り現象,農家4割のクビ切り等,農業基本対策が出てきた。農業高校の生徒数を減らし,普通科・工業科に切り替えたら良いのではとの考えあり。しかし農業教育が花形の工業教育のしわ寄せになっている,現在の農業教育の目標にはスジ金が入っていないなどの反対意見もある。(南日本新聞 S36.6.22)
 昭和37年3月の鹿児島市議会の全員協議会で,池松教育長は両校の廃校は忍びないので,統合して県立移管することを県に陳情したいと述べた。ちなみに36年5月の市教委の計画した高校急増対策は,5年制工業高校の誘致は37年に誘致見通し(鹿児島工業高等専門学校のこと),普通科高校を市内に新設(鹿児島中央高校のこと),電気工業高校新設は,鹿児島工業高校に学科新設,玉龍・鹿女子・鹿商に学級増で対処となった。(南日本新聞S37.3.14)

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(上写真)昭和38年に南北の農業高校で交歓会(6年前に姉妹校盟約)。南日本新聞S38.5.14
 瀬戸山弘(鹿児島農業高校旧職員)「鹿児島農業高校の新設時をふりかえって」(40-p.93) によると,昭和38(1963)年(36年の誤りか)秋に,突然夕刊に「園芸高校廃校と鹿児島市教育委員会案」が示された。廃校理由は市立4高校の中で,園芸高校一人当たりの教育費が存外に掛かり他の職業系の高校に変えようとの記事だった。職員の学校存続の熱意は激しく,早速この件で連日職員会議を行い,「本校の農業教育は県農政上からも必要」との資料が作成され,市教育長との面談を行い存続が確認されたとのことです。
 ちょうど昭和30年代は,30年~神武景気,34年~岩戸景気,39年東京オリンピックと,高度経済成長時代で,農業より工業を優先する風潮の中,そのあおりを受けた部分があったのではと思います。
 最後に,『創立記念誌』の中から当時の状況を見てみたいと思います。
 今福壓男(鹿児島園芸高校旧職員)「坂と山の思い出」(40-p.90) によると,今福氏は昭和31(1956)年に鹿児島農芸高校(大農芸)に赴任後9年間吉野の鹿児島園芸高校に勤務された農業の先生だったそうです。吉野は兼業農家を主とする都市型農村地帯で,早朝滝ノ神坂からリヤカーで,農家の女性が野菜の行商をされていた。生徒は吉野・谷山・桜島・吉田と各方面からのバス通学で,離島や指宿方面の人は寄宿舎での生活だった。氏は畜産が専門で,乳牛2頭,豚2頭,鶏百羽の小規模だったが,ハムやソーセージ作りを行った。苦労したのは牛の飼料作りで,草刈りが日課で,牟礼ヶ丘の島津興業の下草刈りをさせてもらった。夏休みには北部九州への県外先進農家実習があった。
 山口修(鹿児島農芸高校(伊敷)昭和36年卒)「伊敷の思い出」(40-p.92) によると,学校は現在の伊敷小の辺りで,コの字型に校舎が並び,二階建ての本館,講堂,農機具類を収納する倉庫等が並び,校庭には相撲の土俵,校舎裏には大きなヒマラヤ杉があったそうです。農業後継者の育成が目的で,生徒数は少なく1クラス30名余りだった。山口氏は農業科で,週1日は自宅実習で,5日登校。1週間おきに当番で日曜日に登校して家畜の世話をしていた。当時高度経済成長期で卒業生の半数は,県外の農業以外の分野に就職していたそうです。