公開日 2021年09月21日(Tue)
今回は、坂元地区に伝わる伝統芸能「せばる隼人舞」についてです。
鹿児島郡司を代々務め、坂元を領有した矢上氏の石碑です。矢上城跡です。表に「南朝忠臣矢上高純公居城址」、昭和6年3月2日に平田猛が建碑したとあります。高純は5代目で、南北朝時代に終始一貫南朝方(後醍醐天皇側)に属し、島津方(北朝方)に対抗したということです。
催馬楽の碑です。
坂元の日枝神社の近くに、催馬楽の碑(戦前に市が建碑か)がある。それは隼人について真偽混交な内容で、神話の神武東征、隼人が宮中警護のため歌舞で奉仕した話、平安時代の催馬楽を当地の人々が継承した話、そこでの音がたんたどの由来になったとの話が記されている。そもそも催馬楽(さいばら)は伴奏ありの古代歌謡であって歌舞ではない。隼人舞=催馬楽ではない。この混乱はなぜ生まれたか? また碑と少し離れているが、坂元小の近くには、矢上城跡(別名催馬楽城)がある。
キーは矢上氏にあると思う。研究者によると矢上氏は鎌倉初期から南北朝時代(室町初期)までの約130 年間鹿児島郡司として在地勢力となり当地を支配した。その中で日枝神社を創建し、それに伴い神社奉納のため、催馬楽や歌舞を創始したのではないか。最後矢上氏は島津氏との抗争に敗れ、その姿を歴史から消し去ったのであろう。坂元や催馬楽など地名にわずかに痕跡を残すのみとなった。
現在坂元では、せばる隼人舞として毎年11月に奉納されている。これは元々霧島の隼人舞を昭和46(1971)年に京田辺市の方々が伝承して大住隼人舞とし、平成4(1992)年に坂元台小校区の方々が、せばる隼人舞として逆輸入し継承したとのことである。初め催馬楽の碑の近くの催馬楽公園(通称おとん山)で行われていたが、平成28年から坂元台小の体育館で行われている。本校ダンス部も毎年参加して、序の舞と神招(かみおぎ)の舞を担当している。
本校ダンス部及び有志参加者で,令和元(2019)年度に参加した時の様子です。
近隣の小中学校の校歌には、当地の歴史が歌い込まれており、「(1番)歴史にかおる矢上城」(坂元中)、「(1番)矢上の城のあとどころ」(坂元小)、「(2番)若葉さやかな 催馬楽丘 隼人の調べしのびつつ」(坂元台小)と、地域に根付いていることが分かる。