学校周辺の史跡 その7 ~東目筋

公開日 2021年08月27日(Fri)

薩摩街道

 水色の線が,西目筋。ピンクの線が,東目筋です。

 江戸時代,薩摩藩の陸上交通における領外への幹線街道は,西目筋と東目筋に分けられていた。西目筋は鹿児島城下→(西田橋)→伊集院→市来→串木野→川内→阿久根→出水と続き,豊前・小倉に向かい,東目筋は鹿児島城下→実方→吉野→吉田→(白銀坂/2006国指定史跡)→重富→加治木と続き,そこから大口筋,加久藤筋,日向筋(高岡筋)と3方に分かれていく。日向筋は,その後海路で大坂・江戸へ向かっていくことになる。

  東目筋は,明治6年(1873)海岸線が重富まで開通するまで,この吉野-白銀坂が重要な道路だった。鶴丸城→上町→たんたど→実方(太鼓橋,御内用方,別府晋介・桐野利秋誕生地,実方神社)→帯迫(現吉野小,第12郷校,吉野私学校,吉野薬園)→御召覧の岡→菖蒲谷→関屋谷→牟礼ヶ岡→吉田→白銀坂へ

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 東目筋は本校生徒がいつも利用しているバス路線と重なっています。鶴丸城から10号線を北東へ,柳町→大龍小学校前→玉龍高校前→鼓川→お茶の水→たんたど→東高校下→東坂元四丁目→葛山入口バス停を過ぎて左に曲がり(写真の所です),実方方面に向かいます。この道は西南戦争の時に,西郷さんが行きも帰りも通っています。

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 平成29(2017)年9月30日 観光ガイドで、本校生徒が東目筋についてガイドしています。

 後半は西南戦争で敗走する西郷軍がこの道を通り,城山まで突入する時の話をしています。

 明治10(1877)年2月15日西郷隆盛ら挙兵し、西南戦争が始まった。西郷軍は熊本城を包囲したが落とせず、3月田原坂(熊本)で政府軍と激突し敗走、6月人吉(熊本)、7月宮崎方面と退却し、政府軍の包囲網を突破して鹿児島に帰り、城山にこもり、9月24日城山も陥落、西郷以下、桐野利秋、別府晋介ら討ち死にし、7ヶ月に及ぶ戦闘は終結した。
 城山に帰る途中、江戸期の東目筋のルートを通り、帯迫・実方で、西郷軍と政府軍が戦っている。西郷軍は蒲生→吉田→吉野へ南下。9月1日帯迫→実方→稲荷町→城山へと進んだ。対する政府軍は、南下する西郷軍を迎え撃つため、第2旅団(坂元→下田→川上)と新撰旅団(たんたど→実方→帯迫)の二手に分かれて進み、この内新撰旅団と西郷軍が衝突した。
 9月1日午前10時05分 帯迫の戦い。西郷軍が吉野私学校(現吉野小)で休憩している時、政府軍から攻撃あり。西郷軍の前軍は辺見十郎太が率いて鹿児島に突入。中軍の貴島清は帯迫で戦い、後軍の河野主一郎が実方橋を守った。辺見が負傷したので、河野が代わって指揮をとり、私学校から米倉(現鹿児島市役所)を砲撃。
 9月1日午後1時頃 実方の戦い。河野は鹿児島での応援を求められ、水間蓮に40余名を残して実方橋を守らせた。翌2日に実方は政府軍に占領された。前軍の西郷は、護衛されながら、城山に入ったと思われる。