東高校の歴史 その6

公開日 2022年03月21日(Mon)

葛山時代

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(写真)県立鹿児島農業高校(『創立40周年記念誌』H2.2より)

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 (写真)県立鹿児島農業高校(『かつら山』2号/S42.3より)

 昭和39(1957)年3月に,伊敷の農芸高校は再び統合され,伊敷分校となりました。しかし同4月に県立移管されて鹿児島県立鹿児島農業高校となりました。またそれまでの吉野町帯迫から,現在東高校の所在地である坂元町葛山に移転することになりました。葛山時代の幕開けです。そして4年後の昭和44(1969)に校名変更して,ついに鹿児島県立鹿児島東高等学校が誕生します。
 実は農業高校誕生直前に,昭和36年の農業高校論争のような「園芸高校廃校問題」が起きました。関山一二(吉野小・中,園芸高校PT副会長)「鹿児島園芸高等学校の廃校問題について」(『吉野史談』18号)によると,発端は39年秋吉野地区青年団中堅幹部例会(吉野寺)でのことです。出席していた平瀬実武市長が「園芸高校は志願者が少ないので本年限りで廃校にする」と発言し,一同寝耳に水といった感じでした。関山氏は川村校長を初め満PTA会長,馬場信男県議に相談し,PTA総会を開いて廃止反対を決議し,寺園知事に陳情しました。吉野地区全体に廃止反対運動が広がり,最終的には存続決定となりました。しかしながら国内の農業衰微に伴う社会情勢の変化には叶わず,その後の歴史に影響を及ぼしていくことになります。
 鹿児島農業高校初代校長は,川村校長です。園芸科・農産化学科・家政科の3学科が設置されました。同年現在使われている校章も制定され,翌41年には校歌,女子制服が制定されました。同44年に鹿児島東高校の開校です。初代校長は引き続き川村校長です。

川村校長顔  ←川村純二校長です。
 初代校長の川村純二先生について,平成13(2001)年12月7日付南日本新聞に次の記事があります。
  企画[死亡]川村純二さん/鹿児島市立美術館元館長,91歳
 戦後の鹿児島県教育界の発展に貢献し,植物学や郷土史の研究を通して郷土の文化人として活躍した川村純二(かわむら・じゅんじ)さんが六日,脳内出血のため鹿児島市立病院で急死した。九十一歳。鹿児島市出身。(中略)
 明治43(1910)年生まれ。鹿児島師範卒。同校教諭を経て,1945年に鹿児島県庁に移り,産業教育課長,社会教育課長など歴任。鹿児島東校長から4代目の鹿児島市立美術館長に就任。以後1981年まで11年にわたって収蔵品の充実や本館改築など,新時代に即応した美術館の基礎を築いた。県文化財保護審議会委員,鹿児島市文化財保護審議会会長を歴任。南日本出版文化賞(南日本新聞社主催)の選考委員も永年務めた。サクラジマハナヤスリ(シダ)の新種発見でも知られる。

 とあります。東高校校長に就任した際は59歳で,1年勤めて定年退職されたようです。

川村記事

(出典)田川基二「新種サクラジマハナヤスリ」(『植物分類,地理』8(2)/1939年)

 『創立記念誌』から当時の様子を見てみます。川村純二(鹿児島東高校初代校長)「県立移管の思い出」(40-p.79 )によると,昭和39(1964)年4月鹿児島園芸高校と農芸高校を統合して全日制高校とし,園芸科・農産化学科各1学級,家政科2学級,校舎は新しい校地を選定して新築し,県立に移管するという方針が決定した。現在の葛山に決定したのは,大明丘団地ができる1年前だった。園芸高校の跡地には県立養護学校が新設され,園芸高校に植栽されていた樹木は全て新しい学校の緑化に利用してよいことになり,PTAの事業として移植することになった。翌40年には鹿児島農業高校の校庭・緑化・防風垣・造園実習の材料として利用された。市内では最も規模の小さい高校だったが,市街地に近く市内の通学の便もよくなり,校舎も格段に完備され新しいものだったためか,受検者は定員の2倍を超えた。入学試験は鹿児島県立短大校舎を借りて行った。施設・設備以外にも問題があり,伊敷・吉野地区を中心に遠くは郡山町の入来峠から指宿・喜入地区,吉田・桜島地区という遠距離通学が多いこと,市内からの入学者は増えたとは言っても,園芸科・家政科に相応しい者というよりは,この科なら合格できるからという理由で入学した者が大部分だったことである。入学式の翌日にバスを仕立てて,園芸科の生徒父兄にみかんや観葉植物栽培で成功している実際を見学させ理解を深めさせが,不本意入学のため生徒指導上の問題を引き起こした。そのため解決するために教育相談徹底,全職員で生徒指導に当たることにした。ちょうど「生徒指導の手引き(文部省)」が刊行されたので全職員で読んだ。生徒の服装や髪型まで細かく取り決め,違反は厳しく取り締まった。運動場は狭かったが,開校当初から男子サッカー部は活発だった。
 瀬戸山弘(鹿児島農業高校旧職員)「鹿児島農業高等学校の新設時をふりかえって」(40-p.83)によると, 吉野園芸と伊敷園芸の合併,県立移管の計画,新設学校の設計が当時の教頭永田胖先生の手により出来上がった。園芸科2(?),家政科2,農産化学科1学級で全生徒 600名。県管理課と市教委総務課との移管条件がかみ合わず,39年5月18日第1回合併打合会が開かれ,6月22日には敷地検討のため初めて葛山を訪れた。あまりに人家・樹木のない原野,錦江湾を眼下に,桜島を正面にして「こげん素晴らし眺めの学校は他になかど。(しかし)作物は吹っ飛ばさるっどなあ」。県産業教育課の上山典美,園芸高農務主任の鹿屋誠,瀬戸山氏の3人で検討した。県の計算では,農地は極めて狭く,校舎も崖上で危険なので,市営住宅予定地への拡張を願ったが無理で,苦しい校舎配置となった。基礎工事も2階までと制限された。市側からは机・椅子は今までの物を運べ,落雷の多い葛山だが避雷針の予算はないと手厳しい。
 東隆(鹿児島東高校旧職員)「思い出のいろいろ」(30-p.88) によると,40年4月新任の挨拶のため吉野の園芸高校を訪問すると植樹作業の真っ最中で,「明日から作業服を持ってきなさい」との校長の一言あり。翌日朝から晩まで吉野・伊敷から新校舎に運んでくる樹木を植えたり,机椅子を運んだりした。新校舎は山を切り開いた造成地だからただシラスの台地が続いているだけで樹木は一本もない。当初の計画では農業科(園芸科?)・農産化学科・家政科各1で,合計9学級で発足する予定だったが,女子の受験生が多いところから,臨時に家政科を1増やし2学級とした。市内の普通高校はどうしても男子が多く,女子にとっては狭き門だったそのため女子だけの普通科を東高校に設置することになり(市内中学校長会の要望),家政科の2は女子普通科4,さらに6学級に増加した。もともと9学級で発足した学校だから,教室が足りず,プレハブ校舎で間に合わせた。当時県は錦江湾高校の整備に力を入れ,東高校まで手が回らないのだろうとひがんだ。青森県弘前市に柏木農業高校という姉妹校があった。修学旅行の際必ず本校に立ち寄った。東高校に変わった頃から交わりは絶えたようだ。雨の日はシラス台地のためちょっと雨が降るとすぐぬかるんだ。
 伊藤靖彦(鹿児島農業高校旧職員)「葛山台地に,新しい学校の学校園作りに従事して」(40-p.95) によると,園芸・農芸高校が合併して昭和40年4月県立鹿児島農業高校が創設された。このときトラック50台の庭木を移植した。植樹は男子で行い,女子はバケツで灌水をした。新任の先生は赴任当初から生徒と一緒に一生懸命頑張った。園芸科は2年次から園芸コースと造園コースに分かれ学習した。40年代は高度経済成長期で住宅建設も盛んで造園の仕事は注文に応じきれない程だった。各県とも造園科が出来る時代だったが,鹿児島は造園コースで代用していた。
 有馬英子(鹿児島東高校旧職員)「昔話を訪ねて」(40-p.96) によると,40年4月県立鹿児島農業高校新設時から9年間在職した。前任を引き継ぎ「民俗研究班」の顧問を引き受けた,とあります。

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(写真)鹿児島農業高校(のち東高校)生徒会民俗研究班メンバー

 ここでの活動をまとめた『葛山民俗』が第15号まで発刊されており全て東高校図書室にありました。

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 中身は部員が県内各地に伝わる昔話を採録したもので,まず地域を訪問し,お年寄りを訪ね聞き書きしたり,テープレコーダーに録音して後で起こしたりして原稿を作り,それを印刷します。有馬氏「『葛山民俗』の歩み」(『葛山民俗』12号)によると,鹿児島農業高校が新設された昭和40年に民俗研究班も生徒会活動の一環として生まれ,6月17日に山下欣一先生を顧問として,班長吉元公明君,副班長栫徳子さんほか男子21名,女子13名計34名で結成された。8月に桜島・吉田町,11月に吉野町・犬迫・小山田,2月桜島町二股を調査し,41年3月に創刊号が発刊された。桜島研究報告を主としたものだ。41年度は吉野町の調査,在校生の親からの聞き取りや録音。翻字作業に手間取り,刊行見送り,42年度も継続し,第2号発刊。43年に第3号,4号発刊。印刷費が数千円と限られていて部員で用紙を切り,印刷・製本を印刷所に依頼した。またこの年から会報を年数回出すようになった。44年度鹿児島東高校と校名変更後,山下先生の後を有馬先生が引き継いだ。創刊号の編集後記に班長吉元君が「葛山の新装なった校舎で新しい伝統を造り出すためにがんばった」とあり,新聞にも紹介された。生徒の自主的な活動で校外から注目されたようです。

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  (上写真)聞き取りの様子です。

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 (上写真)編集会議の様子です。
 また家政科が設置されていた関係か,農業高校家庭クラブも『らん』という研究誌を昭和43年に創刊しています。本校図書室に創刊号~第4号まで所蔵されていました。1・2号は文集的性格でしたが,3・4号は「一人一研究」という専門的な内容に変わっていきました。

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 (写真) 家庭クラブ研究誌「らん」です。

 満道男(鹿児島農業高校昭和42年卒)「合併,統合,移転」(40-p.98) によると,いよいよ移転が始まると,みかんの樹や庭木の植えいたみを少なくするために,移植期間の雨降りの日を選び,細根の掘り出し,植穴掘りをした。移転後も雨が降ると校庭に水たまりができ,通学路はたびたび土砂崩れを起こし,台風対策など大変だった。
 栫誠耕(昭和39年鹿児島農芸入学,昭和42年鹿児島農業高校卒)「思い出すことなど」(50-p.89) によると,県内の農業系の高校による測量大会があり,鹿児島農業が最優勝となり群馬県の全国大会に出場することになった。また学校で 200羽の鶏を飼っていて日曜登校してえさやりをしていた。
 最後に,昭和40年に制定された校章の由来について。伊藤靖彦(旧職員)「校章のデザインについて-『かつら山』昭和42年2月号から-」(30-p.95) によると,鹿児島農業高校は県の中心にあり,都市近郊園芸を主体に研究し勉強する学校である。それまで他の市内の高校に対してコンプレックスを持っていたが,県立移管を契機として農業に従事すること,農業高校で勉強することに誇りを持てるようなシンボルを考えたいと思った。本校ではレタスなどの洋野菜,花,果樹,庭園樹を栽培しているが,その生産物はいずれも自然の芸術品で,その中に美しさを見出せるような人間を育てることを理想にしている。このような感じに最も相応しいのが「らん」の花である。校章はモチーフとして「かんらん(寒蘭)」の花を用いた。寒蘭は暖地の山林中に自生している多年生草木で,花は11月頃より1月まで寒い季節に咲くので寒蘭の名が付いた。花はたいへん香りが良く,葉も美しく広く観賞用として培養され,中国でも高貴な花として尊ばれている。そのような寒蘭の気品を学校の象徴として考えた。図のように外弁の3つは校訓の自律,自修,自重を表し,上の一枚は未来に伸びる若い青年の進展を,二枚は大地にしっかり足をつけた堅実さを表した。高の字は中心よりやや下方にひかえて安定感を与え,全体が上方に伸び伸びとした勢いを感じさせるようにした。寒蘭は山の中の雑草として,人知れず生育し,その清らかな花の姿と香りを持つので,広く栽培されるようになった。こんな花をこの上なく愛し,学校の校章としてデザインした。東高校もその校章を継承しています。

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 なお昭和41年制定の校歌(作詞:椋鳩十,作曲:武田恵喜秀)についてはコラムの別の所で触れましたので,それぞれ参照してください。

 校歌1校歌2椋鳩十1椋鳩十2武田恵喜秀