分類

  • 2022年01月10日(月)

    校歌の研究 その37 ~西陵中学校

    西陵1

    西陵2

    1.みどりの庭に陽が落ちて 東に映える桜島 友よ学ぼうこの丘で 自律のしらべ高らかに 真理の扉を開くのだ ああ西陵中学われら 2.理想の海へとこしえに 流れて清き田上川 友よ磨こうひとすじに 豊かな心むすびあい かがやく学園創るのだ ああ西陵中学われら 3.歴史の歩みうるわしく 文化のかおるふるさとで 友よ語ろうわが豊富 試練を超えてたくましく 世紀のあしたへ巣立つのだ ああ西陵中学われら

     西陵中学校は、昭和59(1984)年に武中学校から分離して、鹿児島市立西陵中学校として創設されました。校歌制定は翌年の60年です。作詞は内与詩守、作曲は兼廣晨史です。
     作詞担当の内氏について。詳しくは不明でが、県内市民歌等を担当していて、枕崎市民歌、大崎音頭、ふるさと鹿屋音頭、松元お茶音頭、与論町町民歌、鹿屋体育大学学生歌、刈谷市制30周年記念作品「みどりの風に」、その他どういう縁なのか、HOUND DOG の「銀河のささやき」や島倉千代子「おじいさんおばあさんありがとう」の作詞も担当されているようです。
     兼廣氏について。『鹿児島作曲協会創立30周年記念誌』によると、昭和46(1971)年に郡山脩、野崎哲、藤島昌壽(明和中校歌作曲)らと共に、作曲研究グループを結成し、48年に作曲研究会に改称会員20人で発足(代表理事郡山脩)。52年鹿児島作曲協会と改称し現在に至ります。51年郡山氏急逝のため、兼廣氏が引き継ぎ、57年に会長となったそうです。同協会はNPO法人でコンクール等の企画運営、作曲指導、音楽を通じての青少年の健全育成活動等を行うことを目的とする団体です。事業所は姶良市加治木町。兼廣氏は、県内小中校の校歌作曲も担当されています。皇徳寺中、立神中(枕崎市)、西陵小、西原台小(鹿屋市)、武岡音頭(武岡台校区)等です。

     さて歌詞について。1番で「桜島」を詠んでいます。「丘」とあるのは、当校HPに「標高100mの高台にありゆるやかな丘陵地帯」とあり、学校所在地のことを指しています。2番には田上川を詠み、3番には「歴史の歩みうるわしく文化のかおるふるさとで」と地域の歴史環境に触れています。具体的には出てきていませんが、近くに「西郷南州野屋敷の跡」があり、HPに「ここはその昔、西郷隆盛が、愛犬を連れて猟を楽しんだゆかりの地」とあるので、このことを指しているかと思います。ちなみに西陵なのに周辺の団地を、西郷団地と呼ぶのはこのためです。

    西陵中地図

     この図を見ると、中学校密集地域で、団地と中学校区の関係がよく分かります。西陵中校区は、田上川(下流域は新川)と脇田川に挟まれた高台の丘陵地域だと分かります。

  • 2022年01月09日(日)

    職員研修です!!

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     1月7日(金)職員研修「不祥事防止について」がありました。学期当初にあたり,職員研修です。

    WIN_20220107_11_11_32_Pro

     はじめに,DVD「スクール・コンプライアンス」を視聴して,そのあと不祥事発生の要因は何か? 不祥事がなくならないのはどうしてか? 一人一人が心がけることはどんなことか?について,話し合いました。

  • 2022年01月09日(日)

    校歌の研究 その36 ~吉野東中学校

    吉野東3

    吉野東1

    1.はるかに青き錦江湾 清く明るく吉野東 希望に燃えて夢を呼ぶ 勉学励み頼もしく 未来に向きて競いあわん 2.歴史ゆかしくこの台地 出会いを求む吉野東 友愛あふれ咲きかおり 礼節なりて麗しく 未来に向きて輪をひろげん 3.朝日そびゆる桜島 ともに鍛える吉野東 英気に満ちたこの笑顔 勤労練磨  耐えぬきし 未来に向きて歩みゆかん

     吉野東中学校は、昭和58(1983)年に吉野中学校から分離して、鹿児島市立吉野東中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は佐藤文男、作曲は長野彰です。両者とも詳しく分かりません。

     

    ・吉野中校歌(S28制定、作詞・作曲:久保けんお)

    1.高原の吉野は青空にいちばん近い ぐんと背のびをすれば 青空に両手がとどく この美しい国で なごやかな心と心を結ぶ われらわれら吉野中学 2.三つのペンをかたどった われらの校章 光る三つのかなえは奥ふかい 学びの道を朝な夕なに示す あこがれの歌声たかき所 われらわれら吉野中学 3.桜島霧島開聞とひとめに のぞむすみきった空気の中で ひるまない強い体と 知恵と誠とをみがく 寺山に偉人の跡をしのぶ われらわれら吉野中学

    ・吉野小校歌(S30制定、作詞:蓑手重則、作曲:西 勇恕)

    1.ときわのみどり色はえて はるかに仰ぐ桜島 あヽこの窓にこの庭に 学ぶぼくらのわたしらの 知恵もかがやく吉野校 2.歴史はかおる寺山の 西郷さんをしのびつヽ あヽこの原にこの丘に みんな仲よく手をとって 歌もとどろく吉野校 3.平和な里のあさなゆう ゆたかににおう花紅葉 あヽこの地(つち)にこの空に 強く正しくたくましく 夢もはばたく吉野校

    ・吉野東小校歌(S56年以降制定、作詞:蓑手重則、作曲:武田恵喜秀)

    1.朝日の光さわやかに 学びの窓に今日もまた 明るい自主の鐘が鳴る 我らは我らは吉野東小 2.西郷さんの足あとを 朝な夕なにふみしめて 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおる 我らは我らは吉野東小 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 つばさも強くたくましく 我らは我らは吉野東小

     

     さて歌詞について。近隣の小中学校と比較してみてみたいと思います。すなわち吉野小・吉野中・吉野東小・当校の4校です。このうち吉野小と吉野東小はいずれも作詞は蓑手重則氏です。吉野中は以前紹介しました久保けんお氏です。桜島は4校とも歌います。錦江湾は吉野東小が3番で、当校が1番で歌います。他の2校にはありません。距離的にはそれほど大差ありませんが、区別をつけるためでしょうか。これらに共通し、他校に例が見られない点は吉野の西郷さんを歌い込んでいるところです。吉野中では「寺山に偉人の跡をしのぶ」、吉野小では「歴史はかおる寺山の西郷さんをしのびつつ」、吉野東小では「西郷さんの足あとを」、吉野東中では「歴史ゆかしくこの台地」です。

     ちなみに吉野小学校校長室には西郷さんが使用したとされる鉈や鎌が保管されています。明治6年征韓論争で敗れ鹿児島に下野した西郷さんは、吉野の寺山に吉野開墾社を作り、生徒らと昼は開墾、夜は勉学に励みました。その際使用した物が、現在保管されているとのことです。とてもゆかりがあります。

    吉野東中地図

  • 2022年01月08日(土)

    校歌の研究 その35 ~星峯中学校

    星峯中1

    星峯中

    星峯2

    1.輝くひざし この丘に 集うわれらよ 手を取りて 希望の明日を 開きゆく 自主友愛の 鐘ならし はつらつ 星峯中学校 2.山なみはるか 桜岳の 力とどろに 若人の 平和の明日を めざしつつ 正しく強く 生きてゆく たくまし 星峯中学校 3.はてなき空よ 南(みんなみ)へ 大いなる夢 はぐくみて ゆたかな明日を 築かんと 英智をみがき 学びつつ 伸びゆく 星峯中学校 

     星峯中学校は、昭和57(1982)年に鹿児島市立星峯中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は鮫島秀勇、作曲は津曲徹です。鮫島氏は詳しく分かりません。津曲氏については天保山中で触れました。
     さて歌詞について。1番に「この丘」とあり、学校所在地の星ヶ峯ニュータウンの丘陵地域を指していると思います。住所で言えば星ヶ峯1~5丁目に当たり、5・6丁目は星ヶ峯みなみ台ともいうようです。昭和48(1973)~平成4(1992)年に整備されました。当校が57年設立なので、ニュータウン造成に併せて造られたようです。また「自主友愛の鐘ならし」と一見校歌によく出てくるフレーズですが、鐘が鳴るのではなく、鐘を鳴らすと歌い、若干ニュアンスが異なります。より主体的能動的な表現です。
     2番では「桜岳(桜島の異称)の力とどろに」と歌い、詞藻豊かな表現であり、かつ音数を整えたのでしょうか(おうがく=4音、さくらじま=5音)。「とどろ(轟)に」とは、大きな音を立ててという意味なので、桜島の力強さを表現しているようです。
     3番の「はてなき空よ南(みんなみ)へ」の部分が少し意味が取りづらいようです。当校HPでは続く部分が「大いなる夢はくぐみて」となっていますが「はぐくみ(育み)て」が正しいと思います。各番とも最後に、校名で締めくくっています。

    星峯中地図

  • 2022年01月07日(金)

    校歌の研究 その34 ~桜丘中学校

    桜丘中2

    桜丘中1

    1.朝日に映える 山脈の 緑の風の わくろころ 心理をさぐる 若人に 明るい自主の 鐘は鳴る 桜丘中 ああ われら 2.大空あおく 海あおく ながめも清い この丘に 心とからだ きたえつつ 友愛花と 咲きかおる 桜丘中 ああ われら 3.錦江湾の 空高く はるかに仰ぐ 桜島 希望のつばさ はばたいて 輝く明日の 夢を呼ぶ 桜丘中 ああ われら

     桜丘中学校は、昭和55(1980)年に鹿児島市立桜丘中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。東谷山中同様、両者のペアで作詞作曲を担当しています。
     当校HPによると、本校区は、ほぼ桜ヶ丘団地だけの校区であり、一団地単独校となっているそうです。令和元(2019)年度には、創立40周年を迎えたことを一つの節目として、校歌にちなみ、「自主の鐘」を校訓に制定し、校訓を立行司第36代木村庄之助氏に書いていただいたとのことです。

    自主の鐘 ← 校訓「自主の鐘」
     さて歌詞について。今まで何度か紹介した通り、蓑手氏は県内最多の8中の校歌を担当しており、その共通する特徴が見られます。すなわち1番「自主の鐘は鳴る」、2番「友愛花と咲きかおる」、3番「希望のつばさはばたいて」です。明和中の所で触れた通り、学校教育に関わる氏の教育理念が込められていると思います。1番では西側に位置する山々に、朝日が映えると歌い、2番では学校所在地の「桜丘」を歌い、3番では錦江湾の向こうに桜島を仰ぎ見るという構図を歌い込んでいます。

    桜丘中地図

  • 2022年01月07日(金)

    校歌の研究 その33 ~東谷山中学校

    東谷山中

    東谷山2

    1.朝日の光さわやかに学びの窓に輝いて 真理を目指す若人に 明るい自主の鐘は鳴るわれらは東谷山中 2.青雲なびく魚見台銀杏の並木仰ぎつつ 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおるわれらは東谷山中 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 希望の翼はばたいて豊かな明日の夢をよぶ われらは東谷山中

     東谷山中学校は、昭和55(1980)年に谷山中から分離して、鹿児島市立東谷山中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。
     作詞担当の蓑手氏はほぼ同時期に4校の校歌作詞をしています。すなわち明和中(51年設立)、坂元中(52年設立、54年制定)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。また作曲担当の鎌田氏も西紫原中(54年設立)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。東谷山中と桜丘中はペアでの制作です。初回で触れたように、鹿児島市は、51年度「鹿児島市小中学校整備計画」を定め、中学校創設ラッシュとなりました。そのため同時期に校歌を制作することとなり、同じタイミングでの校歌依頼となったようです。
     さて歌詞について。今まで紹介してきたように、蓑手氏の共通の特徴を踏まえています。1番に「自主の鐘は鳴る」、2番に「友愛花と咲きかおる」、3番に「希望の翼はばたいて」とあります。2番の「魚見台」について。当校HPによると、学校所在地が、錦江湾で沿岸漁業が盛んな頃に、魚群を見張る最適な場所であったことから「魚見ヶ原」の地名がついたとされ、「魚見ヶ原の丘」と呼ばれているようです。そこで校歌では「魚見台」と表現されたようです。

    東谷山中地図

  • 2022年01月06日(木)

    校歌の研究 その32 ~西紫原中学校

    西紫原中2

    西紫1

    1.るり晴天の 大空に 光りて昇る 朝の日の 輝く知識 求む子の ああ わが母校 西紫原中学校 2.錦江湾の とどろきて 絶ゆることなく 打つ波の 生きぬく力 つくる子の ああ わが母校 西紫原中学校 3.火を噴く山の 桜島 天の柱と 立つ煙 理想を高く かかぐ子の ああ わが母校 西紫原中学校

     当校HPによると、西紫原中学校は、昭和54(1979)年に紫原中学校を母体にして、南中学校の一部を吸収して、鹿児島市立西紫原中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は椋鳩十、作曲は鎌田範政です。椋鳩十氏は前回触れました。

    鎌田2 ←作曲:鎌田範政氏

     鎌田氏は、昭和22(1937)年に鹿児島市で生まれ、鹿児島大学卒業後、県内の小・中・高校教諭を経て鹿児島大学教育学部に着任され、のち同大教授を務められました。県音楽教育連盟会長、日本教育音楽協会鹿児島支部長、県少年少女合唱連盟理事長などを歴任され、30年間にわたって鹿児島市立少年合唱隊の指揮者を務めたほか、南日本音楽コンクールや南日本ジュニアピアノコンクールの審査員長も務められました。平成20(2008)年度地域文化功労者文部科学大臣表彰、11年度県民表彰されました。平成26(2014)年死去されました。77歳でした。   
     さて歌詞についてですが、前回の紫原中の回でも紹介しましたが、椋鳩十氏は綿密に取材ノート(椋鳩十文学記念館所蔵)を残しています。特に当校については8枚もあります。

     2枚目に学校像(1創造、2健康、男子(?)、明朗、3協力)、生徒(真理創造、心身鍛練、相互敬愛)とあります。椋氏が当校を訪問した際に、学校側から聞いた学校像と生徒の教育方針ではないかと思います。

     2枚目を除く、1~8枚目は校歌の歌詞の推敲の過程を示しており、後半になるに従い完成原稿です。8枚目(下掲)は「西紫(原)中学校々歌」と表題が付いており最終案です。

    8

     1枚目には「るり晴天の大空に」とあり、現校歌の1番1節目の歌詞が早くも現れ、最初の着想を活かした格好です。錦江湾、桜島を使う構想も最初からあったことが分かります。瑠璃色は紫味がかった青色で、空の形容に使われるので、校名と大空に掛けて、椋氏のイメージにぴったりだったのだと思います。

     1番2節も「輝く朝の日の光り」「朝日大きくのぼりたり」と現校歌とほぼ同様で、7枚目に現校歌と同じ歌詞が完成します。1番については最初から構想がほぼできていたようです。

     1番3節の「輝く知識もとむ子の」は、2番にあった「知識」が1番に移り、6枚目で完成します。

     1~3番4、5節の校名での締めくくりの部分は、語順で悩み、7枚目に現行の形に落ち着きました。

     2番は初めは錦江湾の海底を詠もうとしますが、6枚目からは波に変わり、8枚目に2番1節「錦江湾のとどろきて」、7枚目に2番2節「絶ゆることなく打つ波の」で完成します。

     2番3節「生きぬく力つくる子の」は3番から移り、6枚目に完成します。

     3番1節の「火を噴く山の桜島」のフレーズは4枚目で完成し、途中「火をはく」と迷いますが、紫原中と同文を避けるためか、元に戻します。

     2節の「天の柱と立つ煙」は6枚目に完成しますが、天の柱がどういう意味かが謎です。日本神話の天御柱(あめのみはしら)か、自然現象のサンピラー(太陽柱)、光茫、日足などかと思いますが、ここでは素直に桜島の噴火の様を表現していると解釈した方が良さそうです。椋氏ならではの独自表現かと思います。

     3節「理想も高くかがく子の」は1番から「理想」を移して6枚目で完成です。4・5枚目で悩み、6・7枚目でほぼ完成させたようです。5枚目には、何回も推敲した跡が見られます。

    西紫原中地図

     

  • 2022年01月06日(木)

    校歌の研究 その31 ~坂元中学校

    坂元中1

    坂元中2

    1.歴史にかおる矢上城 学びの窓に眉あげて 真理をさぐる若人に 向学自主の鐘は鳴る 2.高原広く澄むところ 緑の風もさわやかに 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きにおう 3.仰げばはるか青雲に 火をはく山よ 桜島 希望も強くたくましく はばたく坂元中学校

     当校HPによると、坂元中学校は、昭和54(1979)年に創設されました。学校創設と同年に校歌が制定されました。作詞は蓑手重則、作曲は武田恵喜秀です。両者については、それぞれ城西中、清水中で触れました。
     当校所在地は特異な歴史的環境があり、当校HPに以下のような記述があります。
    1坂元の地名
     催馬楽(せばる)の旧村社日枝神社は近江の国の日枝神社の分霊を奉祀し、彼の地名に習い村を「坂元」と呼ぶと伝えられている。
    2催馬楽城(矢上城ともいう)
     文永4年~興国5年(77年間)南朝の忠臣矢上高純の居城で南北朝のころ、矢上左右衛門高純が終始一貫南朝に勤王し、猛烈に島津氏と戦って玉砕した戦場でその城跡が本校の前にある。
    3催馬楽碑
     奈良時代から朝廷の催馬楽(さいばら)という音楽を奏した隼人が住んだところと伝えられている。
     鹿児島郡司矢上氏の歴史と坂元の由来、催馬楽について、本校HP「学校周辺の史跡」で触れましたが、少なくとも 100年ほど当地を支配した矢上氏の歴史や伝統が根付いていることは確かだと思います。そのため当校や坂元小、坂元台小の校歌に、矢上氏(城)について詠み込まれています。特に坂元小校歌は作詞が同じ蓑手氏で、当校の4年前の昭和50(1975)年制定で内容もよく似ています。

     

     坂元小学校校歌(作詞:蓑手重則 作曲:郡山 脩)

    1.矢上の城のあとどころ 朝日に映える学び舎に きょうも明るい眉あげて 豊かな知恵の実をひろう 坂元われらまことの子 2.山なみ遠くめぐらせて 緑の風のわくところ みんな仲よく肩組んで やさしい愛の輪をむすぶ 坂元われらめぐみの子 3.錦江湾の空たかく 火をはく島よ桜島 つばさ大きくはばたいて かがやくあすの夢をよぶ 坂元われらのぞみの子

     

     さて歌詞について。1番に「歴史にかおる矢上城」とあり、地域の歴史を踏まえ、後半「自主の鐘は鳴る」と蓑手氏おなじみのフレーズで結んでおり、2番には「友愛花と咲きにおう」、3番には「希望も~はばたく」と共通のワードが使われています。2番の「高原」は学校周辺一帯の高台のことを指すのでしょうか。3番では火をはく山桜島を歌い込んでいます。

    坂元中地図

  • 2022年01月05日(水)

    校歌の研究 その30 ~明和中学校

    明和中1

    明和中2

    明和中3

    1.朝日に映える桜島 学びの窓に仰ぎつつ 真理をめざす今日もまた 生命に深くこだまして 明和よ自主の鐘は鳴る 2.山脈あおく 海あおく 南風ひかる丘の上 心を磨き 身を鍛え 生命も清く触れあって 明和よ愛の花かおる 3.錦江湾の空はるか 白雲絶えず湧くところ 希望のつばさたくましく 生命のかぎりはばたいて 明和よ明日の夢を呼ぶ

     当校HPによると、明和中学校は、昭和51(1976)年に、城西中学校から分離して創設されました。61(1986)年には武岡中学校が分離します。分離直前は総生徒数2000名以上と、日本でも最大規模だったそうです。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は藤島昌壽(まさひさ)です。蓑手氏については、城西中学校の所で触れました。

    藤島昌壽 ← 作曲担当の藤島昌壽氏です。

     藤島氏について詳しくは分かりませんが、昭和10(1935)年に生まれ、令和2(2020)年に亡くなりました。鹿児島出身の作曲家です。鹿児島女子高では多くの合唱曲を作られたそうです。平成22(2010)年には日置市市民歌を作曲されています。 『我が人生に悔いはなかりき-蓑手重則・瑛子追悼文集-』「校歌に寄せて-校歌集」によると、当校の校歌作成の事情が分かります。蓑手氏は鹿大で国文学を講じ、小中高校の国語教育を指導していた関係で、各所から依頼され校歌を制作されたとのことです。当校についても当時の南郷校長の委嘱によるとのことです。校歌で「生命」という言葉を反復強調しているのは、「小学生の頃から両親の手伝いをしながらいろいろな作物や家畜を育てて、その生命の神秘さや尊厳さを痛切に体験していたから」ということです。校歌には1番「生命に深くこだまして」、2番「生命も清く触れあって」、3番「生命のかぎりはばたいて」とあります。また1番「自主」、2番「協力」、3番「希望」を主題としており、「これらの精神は生徒ひとりひとりの具体的な生命とこだましふれあい高まらなければ正しくは生かされません」とのことです。
     1番の「自主」について。学校教育は生徒ひとりひとりの能力や性格に即して自主的な協力的な解決的な学習活動を展開して、生徒の主体的な学習態度を育成するところであり、そうでなければ生命と深くこだまする人間を育成することはできないでしょう。
     2番の「協力」について。人間は本来家庭や社会を構成して、相互に仲よく話し合い助け合って生きていかなければならない。氏は昭和26(1951)年鹿大代用附属の伊敷中学校主事として、研究主題「自発学習」をかかげ、男女仲よく話し合い助け合う生活態度を育成するなど3点を示しました。そこで男女同数の自然グループを編成し、学習活動を行わせたそうです。2番に「生命も清く触れあって明和よ愛の花かおる」とあるように、男女生徒が仲よく触れあうことで、学校教育の民主化が浸透していくと考えていたようです。本稿はここで終わっており未完のようです。
     さて改めて歌詞について見てみます。今まで触れたように蓑手氏は県内最多8中の校歌を作詞しています。その共通するところは、自主の鐘、友愛の花、希望の翼です。桜島と錦江湾の定番の景観も詠み込んでいます。

    明和地図

  • 2022年01月05日(水)

    校歌の研究 その29 ~緑丘中学校

    緑丘中1

    緑丘中2

    1.けむりを空に噴き上げて いのちを燃やす桜島 ああその雄姿のぞみつつ 自ら学び励むもの 中学われらに力あり 2.緑丘のあけくれに 友愛花と咲くところ ああはつらつの眉上げて 真理の道を進むもの 中学われらに誇りあり 3.したたる汗に健康の よろこび歌う若い声 ああその意気にこぞりつつ かがやく明日をめざすもの 中学われらに使命あり

     当校HPによると、緑丘中学校は、昭和49(1974)年に創設されました。校歌は2年後の51(1976)年に制定されました。作詞は高城俊男、作曲は吉崎清富です。高城氏については、長田中学校の所で触れました。
     吉崎氏は、ウィキペディアによると、日本の現代音楽作家です。昭和15(1940)年秋田県大館市生まれ。中学卒業と同時に上京し、桜美林高校、東京芸術大学、同大学院を修了しました。作曲を下総皖一、石桁眞禮生に師事し、ベルリン国立音楽大学に留学し、国際コンクールで入賞を果たします。同大卒業後ベルリン工科大学電子音楽スタジオ研究員に着任。鹿児島大学講師着任後、東京学芸大学教授、国立音楽大学講師、鹿児島大学教授を歴任し、令和3(2021)年瑞宝中綬章を受章されました。三枝、西村、松平、水野氏らと結成した「オーケストラ・プロジェクト」、自らが主宰する作曲グループ「パッケージ21」等において、ユニークで鮮烈な作品を多数発表し、NHK電子音楽スタジオ等からの委嘱による電子音響作品やコンピュータ音楽作品も手掛け、実験精神に溢れながらも正統な現代作曲技法に裏打ちされた作風は、極めて独創的な音楽世界を確立したものとして高く評価されているそうです。
     さて歌詞について。作詞担当の高城氏は県内5中、長田中・河頭中・桜島中・和田中・当校の作詞をしています。共通する特徴としては、1番に桜島、2番に錦江湾を歌い、最後に校名でしめくくるというパターンが多いようです。ただ錦江湾より離れている河頭中は甲突川を歌い、当校は緑丘を歌っています。また古語を好んで使う傾向もあります。当校では2番に「あけくれに~真理の道を進む」とあり、朝夕問わず、真理探究に励んでいくという意味合いでしょうか。同じく2番の「友愛花と咲くところ」もよく出てくる表現です。3番では「かがやく明日をめざす」と郷土建設を歌います。

    緑丘中地図

    団地地図

     緑丘中は、第2次ベビーブーム(1970年代初頭)、伊敷団地造成(1966から1971年)による人口急増の受け皿として、創設されたものと思われます。