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2022年03月06日(日)
東高校の歴史 その3

(写真:上・下)鹿児島空襲S20.3~8月(平岡正三郎撮影)の写真
ついで戦後の歴史について『鹿児島県教育史』下巻(1961年),『鹿児島市史』第2巻(1970年)で見てみます。
昭和20(1945)年8月15日終戦となり,荒廃状況の中,教育再開が模索されました。鹿児島はかつて南進基地で特攻基地でもあった関係で,空襲もひどく,その被害率は全国一とされました。市街地の9割を焼失した鹿児島市内の学校では,26校が焼け,さらに直後に台風被害(枕崎台風)もありました。
戦後はアメリカを中心とする連合国軍による占領軍政下に置かれ,昭和21(1946)年にはアメリカ教育使節団が来日し,教育改革の方針を示しました。鹿児島では,軍政部が,昭和21年初代長官グレイズブルック中佐が鹿児島市庁舎内に事務所を設けてから昭和24年まで続きました。最も大きな影響を与えたのは民事教育課のヴォート氏でした。民事教育課の軍政官たちは急激な改革で,アメリカ方式をそのまま鹿児島に当てはめようとしました。昭和23(1948)に新制高等学校が発足しました。根本方針として,勤労青年教育を重視して定時制課程を多数設置,男女共学,講堂・図書館等設備充実を行い,学校統合が断行され,旧制中学,女学校を36校に統合し,部制を実施しました。これは鹿児島の実情を無視したやり方で,アメリカ軍政部の意向で,強力に総合制が実施されました。すなわち県立5校を統合し,鹿児島県高等学校と称し,鹿児島工業を第一部,第二高等女学校を第二部,第一高等女学校を第三部,第二鹿児島中学を第四部,第一鹿児島中学を第五部にしました。また市立4校と市立青年学校3校を統合し,鹿児島市高等学校と称し,市立中学校を第一部,市立女子興業学校を第二部,市立高等女学校と市立鹿児島商業を第三部,市立鹿児島・吉野・紫原青年学校を第四部(定時制3教場)にしました。しかし,昭和24年に鹿児島県鹿児島高等学校は第三部と第五部が統合し鶴丸高校に,第二部と第四部が統合し甲南高校に,第一部は鹿児島工業になりました。また昭和25年に鹿児島市高等学校は第一部と第二部普通科が統合し,玉龍高校に,第二部と第三部他が統合し,鹿児島商業高校に,第四部は鹿児島農芸高校になりました。なお昭和31年に鹿児島商業から鹿児島女子高が分離しました(以上鹿児島市史第2巻による)。

(出典:『鹿児島市史』第2巻p.953~955により作成)
東高校の沿革と比べて昭和23~24年の部分に異同が見られますが,最終的に昭和25年に鹿児島農芸高校になっていくようです。
最後に,終戦直後~部制時代の東高校の状況を『創立記念誌』で見てみます。前回紹介しました,江口武雄「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和23年新学制が施行され,紫原農芸青年学校は商業学校と一緒になり,鹿児島市高等学校第三部と称され,翌年玉龍高校,女子高校,商業高校をそれぞれ一部二部三部とし,紫原,伊敷,吉野の青年学校を第四部となったとあります。
上山佐五次(旧鹿児島農芸高・教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和23年新制高校発足し,本県では旧青年学校が母体となって昼間定時制を主とした高校が多く設置され全国的に珍しいケースだった。鹿児島市の紫原,鹿児島,吉野の3青年学校があり,市は総合制の部制で発足し,3青年学校は第四部で教場が設置されたそうです。吉野以外は戦災で校舎ほか全部無一物,公民館や仮設の小学校を借用して,夜間貧しい照明の下で,蚊に刺されながらの授業だった。教科書も無く教師用意のプリントや新聞記事などを教材とした。生徒の大部分は,青年学校からの編入,兵役からの復員,軍需工場から放出された者等,高年齢者もあり,かなりすさんでいたが,次第に向学心を取り戻し,先生方も空腹に堪えながら青年たちと一緒に取り組んだそうです。
家村綾子(昭和26年紫原教場農業科卒)「おもいで」(30-p.77)によると,昭和22年10月頃紫原の青年学校が体質改善,昇格して,新制高校の定時制高校となり,全日制には行けないが本人に向学の意志さえあれば入学できるという話が伝わってきて,そう裕福でもない農家の出だったが,手続きして入学したとのことです。市高校第三部紫原教場として開校し,入学。先生方7名,助手・用務員3名,生徒数は百数十名程だったそうです。泊口利道(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「学制改革期の思い出」(40-p.87)によると,昭和23年かつての紫原青年学校が新制の定時制高校として発足することとなり,先生方の勧めもあり,地区青年団の一部有志と語らい入学してみようとなり,地区の公民館で編入試験を受け,定時制高校3年生となったそうです。生徒は皆仕事を持った社会人で,平日は夜,休日は昼間の登校で,校舎は旧青年学校の焼け残り1棟でみすぼらしいものでしたとあります。発足当初は第三部で昭和24年に第四部と改称したそうです。

(上写真:大迫氏S25.3卒業時の写真。)
大迫輝夫(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「紫原教場の思い出」(40-p.88)によると,戦争に2年間従事して復員し,当時の紫原青年学校に入学し,その後市高校紫原教場に編入したそうです。働きながら勉強する青年諸君が集まっており,農業従事,市役所職員,県職員,電電公社,中小企業など多種多様で,年令差も5~7歳ぐらいありました。平日は夕方5時30分から夜9時過ぎまで,5教科以外に農業に関する化学とか畜産関係の授業もありました。職場には教科書持参で4キロを自転車通学でした。日曜日は朝から出校して農業実習や体育授業,バレー大会は楽しいひとときでした。先生方は夜間と日曜出勤で大変だったろうと思います。
戦後混乱期の中での教育など様々な苦労がしのばれる一方,戦前の青年学校での教育が受け継がれており,教師と生徒らが戦後復興を目指して努力された様子が伝わってきます。2022年03月02日(水)
東高校の歴史 その2

(写真)県立伊敷青年学校(『躍進の青年学校』より)
東高校の直接の淵源は,青年学校になります。戦前に成立した『躍進の青年学校』(S16(1941)年)から紹介したいと思います。
鹿児島県の青年学校数は 184校で,1町村平均数は 1.3校です。生徒数は59,640人です。
県立青年学校が2校(伊敷,市来)で,町村立・私立が 182校あります。その内現在の鹿児島市内にあるのは,鹿児島・荒田・松原・西田・吉野園芸・紫原農芸・天保山・中洲・大龍・山下青年学校,私立青年甲南実践女学校,私立薩摩片倉・私立山形屋・私立吉見鉄工所青年学校,県立伊敷青年学校,谷山町立青年学校,谷山町立実践女学校,吉田村立青年学校,西桜島村立・東桜島村立青年学校,喜入村立青年学校の17校+私立4校計21校になります。その中の吉野園芸・紫原農芸・伊敷青年学校が,東高校の前身の学校になります。
3校の内,最も生徒数が多いのは吉野園芸青年学校で 484名(男子 319名,女子 165名)です。ついで県立伊敷青年学校で 481名(男子 356名,女子 125名)です。紫原農芸青年学校は 393名(男子 187名,女子 206名)です。吉野園芸青年学校は,昭和6年に吉野村内3実業補習学校,3青年訓練所を廃して,吉野公民学校,高等公民学校を吉野尋常小学校に附設しました。昭和9年に鹿児島市に併合され市立化し,昭和10年に青年学校となりました。
県立伊敷青年学校は,校長は県立青年学校教員養成所長と兼任していました。青年学校生徒は普段は就労・就農しながら,夜間に通学するという形です。「学校にして学校にあらざる学校」として,家庭生活指導を徹底するという方針でした。また昭和10年から専任教員の部落駐在制を実施し,職場訪問して現場指導を行うものでした。また教員養成所に附設している関係で,教育実習指導も行いました。
(写真)県立青年学校教員養成所(『躍進の青年学校』より)
紫原農芸青年学校は,昭和10年に宇宿中等公民学校,同青年訓練所,県立実業補習学校,田上青年訓練所が廃止され,田上町に新設されました。その特質は部落男女青年団と学校との連絡提携のため,毎月1~3回部落常会に部落専任教員が出張し,部落別生徒異動表・生徒個人別出席状況表により不就学欠席の指導督促,世話係を任命し指導徹底を図る。蔵書の貸出,新聞切り抜きの奨励,講演・ラジオの聴取,教員の巡回指導等でした。なお田園都市の農業として,副食物を提供するため,蔬菜,温州ミカン,レモン,柿,雑柑の栽培。また就職を斡旋し,昨年度より職業指導科,商業科を設け,会社の事務員指導等を行いました。
(写真)紫原農芸青年学校(『躍進の青年学校』より)
以上のように青年学校は,就労・就農と勉学の両立,職業訓練等を担い,小学校卒業後の教育を担当していたことが分かります。このことが東高校の前身である農業系学校の基礎となっていきます。
最後に東高校の創立記念誌から当時の様子を抜粋します。『創立40周年記念誌』p.85(以後40-p85と略す)の江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」によると,江口氏は昭和13年紫原農芸青年学校に赴任し,昭和27年紫原分校廃校まで勤務したそうです。紫原農芸青年学校は昭和10年4月に田上町広木に設立され,職員は教師7名,指導員3名他で,生徒数は本科男子1年から4年まで,各学年約50名,女子は各学年約30名だったそうです。約というのは,当時の生徒は仕事を持っていて,仕事の都合で通学する生徒が荒田の青年学校に変わったり,西田に変わったり,又他から転入したりして常に一定しなかったためです。男子は兵隊に行くまで在学し,午前は一般教科,午後は教練でした。空襲で学校は全焼し,その跡に仮校舎が建っていて,江口氏は復員後教員となったそうです。戦後の新学制で商業学校と一緒になり鹿児島市高等学校第三部となり,紫原・伊敷・吉野の青年学校をまとめ第四部となったそうです。
(写真)江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(『創立40周年記念誌』p.85)より。戦後の農芸高校紫原分校の写真か? ほとんど男子で,女子は2人? 男女一緒に写っていますね。
2022年03月02日(水)
新聞に載っていました!!
令和4年3月1日付南日本新聞に,3年生油田さんの記事が載っていました。

2022年03月01日(火)
卒業式です!!!
本日,令和3年度 卒業式(普通科第51回)が行われ,3年生59名が卒業しました。
卒業生入場です。
卒業証書授与です。
校長式辞です。
鹿児島県教育委員会告辞です。
PTA会長祝辞です。本校PTA会長の田原和枝さんによる挨拶です。
在校生送辞を,現生徒会長の椿山さんがしました。
卒業生答辞を,卒業生代表の黒木君がしました。
卒業生退場です。拍手で見送ります。
卒業式後,場所を大ゼミに移して,1・2組合同で,最後のLHRです。卒業証書を1人1人渡します。そのあと生徒2人が作成した,入学以来の学校行事の写真のスライドを見ました。
最後に,3学年職員全員に,花束と色紙の贈呈がありました。
卒業生諸君は,これからそれぞれの新しい進路先で,頑張って欲しいと思います。
2022年02月28日(月)
授賞式,同窓会入会式,卒業式予行です!!
本日,本校体育館で,授賞式,同窓会入会式,卒業式予行がありました。
はじめに皆勤賞(1ヶ年皆勤(上),3ヶ年皆勤(下3名))の表彰です。
ついで,教育委員会賞(2名)
次に,岩崎賞です。
その他多種目賞がありました。
予行指導のあと,同窓会入会式です。同窓会役員の土俊二郎さんがあいさつをされました。
卒業生代表挨拶を,黒木君がしました。
最後に卒業式予行が行われました。
卒業証書受領代表のあいさつです。3方に礼をします。
卒業式の祝詞です。昨年度までいらっしゃった先生方の祝詞が届いています。
2022年02月28日(月)
東高校の歴史 その1

新シリーズです。東高校の歴史を振り返り,そのルーツを探りたいと思います。
これから鹿児島東高校の歴史を見ていきたいと思います。東高校は平成30(2018)年に創立70周年を迎えました。昭和23(1948)年に新制高校が成立以来70年が経つということです。しかしその時はまだ「鹿児島東高校」ではありませんでした。校名等の幾多の変遷を経て,昭和44(1969)年に現在の校名となりました。
東高校の歴史について考えることは,現在の東高校のルーツを探ることです。鹿児島の教育といえば,江戸時代の郷中教育があります。薩摩藩の青少年教育を指し,イギリス発祥のボーイスカウトの原型とも言われています。6~10歳までの小稚児を,11~15歳の長稚児が生活全般を教え,さらに15~25歳の二才と呼ばれる青年が指導するというものです。明治になってもその伝統は続き,西郷隆盛が征韓論で敗れて鹿児島に下野したあとは,私学校(現城山の鹿児島医療センター)が作られました。県内に 100校以上の分校がありました。また吉野には吉野開墾社が作られました。昼間は農作業をし,夜は勉学するというものです。西南戦争後は,それを継承する学舎が数多く作られ引き継がれました。
戦前の教育は現在の小・中・高校・大学の単線型とは異なり,複線型と言われ,小学校卒業後は複数の選択肢がありとても複雑です。明治末段階で小学校はほぼ100%の就学率になりますが,その後は旧制中学校(現在の高校),高等女学校,実業学校(工業・商業・農業等),師範学校(教員養成学校)の選択肢がありますが,それらに進学するのは2割ほどとされています。残りの大多数は就職するか,家の農作業を担うことになります。明治後半から農家の子弟や就労者に対しても中等教育をとの動きが高まり,実業補習学校,青年訓練所(軍事教練)が設置され,昭和10(1935)年に両者が統合され,青年学校が誕生します。これが現在の大多数の高校の原型になっていきます。
さて,東高校の沿革を見ると,その元は吉野・伊敷・紫原の各青年学校が統合されたものです。そのあと農芸高校・園芸高校と農業系の学校となります。昭和40(1965)に鹿児島農業高校が誕生します。しかしその4年後の昭和44年に鹿児島東高校となります。はじめは園芸科や農産化学科があり,その名残がありますが,昭和61(1986)年に園芸科が募集停止となり,国際教養科が新設されます。現在はその国際教養科も平成23(2011)年に募集停止となり,普通科のみの学校となっています。
本校HPのトップメニュー「学校紹介」の「学校沿革」を見ると,昭和10(1935)年吉野,伊敷,紫原の各青年学校以降の歴史がありますので,それを見てください。上の地図にその場所や変遷を図示してみました。
2022年02月26日(土)
日本史おすすめ本 その27
今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

2022年02月22日(火)
校長講話です!!
先の金融セミナーの後,3年生対象で,松山武史校長先生による最終講話がありました。
今年度定年を迎えられます校長先生の最終講話です。
講話の間々に,生徒の様子を見られたり,積極的に話しかけられています。
今まで心に残った言葉を元に話をされています。
最後生徒代表として元生徒会長の油田さんからお礼の言葉と花束贈呈です。
本日は大変貴重なお話をありがとうございました。生徒もしっかり聞いていたと思います。本当に長い間ご苦労様でした。お疲れ様でした。
2022年02月22日(火)
金融セミナーです!!

今日は3年生出校日です。テーマは「金融トラブル」です。SMBCコンシューマーファイナンス(株)作成のDVDを視聴しました。
まず成年年齢について。今年の4月1日から,成年年齢が20歳から18歳に変わります。
何が変わるのか。親の同意が無くても契約することが出来ます。→若い世代をねらった詐欺被害拡大の懸念。カードトラブル(名義貸しによるトラブル)。
生徒のメモから


中にはイラストでまとめている生徒もいました。分かりやすい!!
感想から
・18歳になったら,保護者の許可無く,自分の責任で色々なことができる。そして,トラブルやさぎに巻き込まれないようにするためにしっかりと考えて行動しなければならない。私も18歳なので成人として
ふさわしい行動を心がけていきたい。そして,アルバイト詐欺という言葉をはじめて聞いた。親しい友人,家族でもクレジットカードを貸さないようにしたい。18歳として社会人としてしっかりと生きていきたい。
・簡単に人にお金や名義などを貸してはいけないと思いました。色々なローンなどで組めなくなってしまったりするので,そういう事には,気をつけて対処していきたいと思いました。また親しい友達でもそういうことはちゃんと区別をつけていきたいと思いました。将来はちゃんと断ることをできるようにしたいと思います。アルバイト詐欺などにも気をつけていきたいと思います。言われたらまずうたがったり調べたりして,ちゃんと理解してから利用したいと思いました。
2022年02月22日(火)
卒業生からのメッセージです!!
今日,3年前の卒業生2人が,学校を訪ねてくれました。2人は平成30年度の卒業生で,現在,赤塚学園看護専門学校3年生,鹿児島県医療法人協会立看護専門学校3年生です。インタビューの様子を紹介します。
Q 看護学校ってどんな学校ですか?A1(赤塚学園) 同年齢が多い。学校によってそれぞれ違う。
A2(協会立看護) 年齢も様々。主婦の人や私みたいに若い人。3分の1が男子。
Q どんな内容を勉強するのかな?
A 注射の演習がある。先生がお手本をして見せて,私たちがそのまねをする。
Q 座学にはどんなものがあるのかな?
A 看護技術,分野毎に小児,母性,在宅,老年がある。社会学。心理学。物理。英語。数学は,看護技術の中にある。点滴の計算や酸素ボンベとか。
Q 実習とかは多いの?
A 1年生の時は見学実習,病院に行って看護婦さんの動きを見て回る。2年生から本格的にある。6週間が2回。3年生は6ヶ月。在宅・訪問看護。老人ホーム,保育園に行く。記録が大変。家に帰ってすぐ日誌を書く。あとテストが大変。月から木曜日まで実習,金曜日にテスト。国家試験の勉強が大変。
Q くじけそうになる? 辞めてしまう人がいる?
A あります。辞めてしまう人もいます。
Q 高校時代どんなことを頑張っていた方がいいですか?
A 勉強を頑張った方がいいです。国語,数学,英語,理科,社会,全部です。(国家試験に出るからでは無くて)勉強していた方が絶対いいです。どんどん難しくなるので,基礎になるので。現代文だったら言葉の使い方,コミュニケーション能力を鍛える。数学も必要です。絶対。理科も当たり前。基礎になる。国試にも出ます。
Q どんな看護師になりたいですか?
A2 災害看護師になりたいです。災害があった時に対応する看護師です。病院に就職して3年間勤めて,資格が必要。
A1 実習を通して,認知症,アルツハイマーの患者さんに触れて,(そういう患者さんに対して)偏見とかあって大変だけど,患者さんの話を聞いて,共感して,心に寄り添えるような看護師になりたいです。
とてもためになる話をしてくれました。毎年看護師希望の生徒はいますが,看護の専門学校がどういうところで,何を勉強するのか。卒業したあとどういう進路があるのか,分からないことが多く,不安だと思います。先輩たちの話を聞いて,参考になればいいなと思います。2人は看護師の国家資格試験を受験して,3月末に結果が分かるとのことです。進路も決まっていて,鹿児島の医師会病院と米盛病院だそうです。夢に向かって頑張ってください。
