コラム

  • 2021年10月08日(金)

    日本史おすすめ本 その18

      これから週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (18)

  • 2021年10月02日(土)

    日本史おすすめ本 その17

      これから週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (17)

     

  • 2021年09月25日(土)

    日本史おすすめ本 その16

      これから週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (16)

  • 2021年09月21日(火)

    学校周辺の史跡 その12 ~せばる隼人舞

     今回は、坂元地区に伝わる伝統芸能「せばる隼人舞」についてです。

    写真矢上城

     鹿児島郡司を代々務め、坂元を領有した矢上氏の石碑です。矢上城跡です。表に「南朝忠臣矢上高純公居城址」、昭和6年3月2日に平田猛が建碑したとあります。高純は5代目で、南北朝時代に終始一貫南朝方(後醍醐天皇側)に属し、島津方(北朝方)に対抗したということです。

    せばる隼人舞地図

    写真せばるの碑

    催馬楽の碑です。

      坂元の日枝神社の近くに、催馬楽の碑(戦前に市が建碑か)がある。それは隼人について真偽混交な内容で、神話の神武東征、隼人が宮中警護のため歌舞で奉仕した話、平安時代の催馬楽を当地の人々が継承した話、そこでの音がたんたどの由来になったとの話が記されている。そもそも催馬楽(さいばら)は伴奏ありの古代歌謡であって歌舞ではない。隼人舞=催馬楽ではない。この混乱はなぜ生まれたか? また碑と少し離れているが、坂元小の近くには、矢上城跡(別名催馬楽城)がある。
     キーは矢上氏にあると思う。研究者によると矢上氏は鎌倉初期から南北朝時代(室町初期)までの約130 年間鹿児島郡司として在地勢力となり当地を支配した。その中で日枝神社を創建し、それに伴い神社奉納のため、催馬楽や歌舞を創始したのではないか。最後矢上氏は島津氏との抗争に敗れ、その姿を歴史から消し去ったのであろう。坂元や催馬楽など地名にわずかに痕跡を残すのみとなった。
     現在坂元では、せばる隼人舞として毎年11月に奉納されている。これは元々霧島の隼人舞を昭和46(1971)年に京田辺市の方々が伝承して大住隼人舞とし、平成4(1992)年に坂元台小校区の方々が、せばる隼人舞として逆輸入し継承したとのことである。初め催馬楽の碑の近くの催馬楽公園(通称おとん山)で行われていたが、平成28年から坂元台小の体育館で行われている。本校ダンス部も毎年参加して、序の舞と神招(かみおぎ)の舞を担当している。

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     本校ダンス部及び有志参加者で,令和元(2019)年度に参加した時の様子です。

     近隣の小中学校の校歌には、当地の歴史が歌い込まれており、「(1番)歴史にかおる矢上城」(坂元中)、「(1番)矢上の城のあとどころ」(坂元小)、「(2番)若葉さやかな 催馬楽丘 隼人の調べしのびつつ」(坂元台小)と、地域に根付いていることが分かる。

  • 2021年09月20日(月)

    日本史おすすめ本 その15

      これから週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (15)

     作者は鹿児島県錦江町生まれ、大阪府出身の直木賞作家です。2020年に『熱源』(樺太や北海道を舞台に樺太アイヌとポーランド人の民族学者の運命が交差する歴史小説)で直木賞を受賞。今週金曜日の9月24日から、『パシヨン』が南日本新聞で連載されるとのこと。内容は、キリスト教禁教下の江戸時代初頭。日本人司祭マンショ小西と、幕府の宗門改方・井上政重の対立を軸に大農民一揆や島原の乱を絡めて、壮大な物語が繰り広げられます。「パシヨン」とは、キリシタン用語でキリストの“受難”を意味します。とのことです。楽しみですね。

  • 2021年09月18日(土)

    学校周辺の史跡 その11 ~東坂元3丁目創設30周年!!

     本校の住所は、東坂元3丁目である。今回はこの由来を考えてみたい。

    坂元地図

     明治初期の地誌『薩隅日地理纂考』によると、坂元の由来は初代島津忠久が薩摩下向の時に近江国(現滋賀県)坂本の日吉(ひえ)神社を分祀(神霊を分け別の場所に祭ること)して創建したことに因むという(現在の鹿児島商業の近くの日枝(ひえ)神社)。しかし忠久は薩摩入りした事実はないので疑問視される。坂元(本)の地名は室町時代から見られるので、恐らく鎌倉~室町時代初期の鹿児島郡司矢上氏が当地を領有する際に作ったのではないかと思うがどうだろうか。江戸期は近在(城下に近い村)の1つで、明治中期には吉野村大字坂元となり、昭和9年に坂元町となった。その後現在に至るまで町域の変遷がある。東坂元3丁目は、平成4(1992)年8月10日に坂元町から分かれ、4丁目と共に新設された。そのため何と来年度は創設30周年!を迎えることになるのだ。

    日枝神社

     

     

  • 2021年09月18日(土)

    日本史おすすめ本 その14

      これから週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (14)

  • 2021年09月13日(月)

    学校周辺の史跡 その10 ~皷川のお地蔵さん

     本校生徒がいつも使うバス路線で,鹿児島市内方面から、バスで皷川・吉野方面へ上っていくと、一つ目のカーブを過ぎた道路右側に、赤い屋根のほこらが目に付き、そばに地蔵菩薩が見えます。

    鼓川の地蔵菩薩

     江戸後期の地誌『三国名勝図会』によると、ここは「智恵光院」のあったところで、もと坊津の一乗院の末寺で真言宗のお寺ということです。本尊は地蔵菩薩(聖徳太子作とされる)で、16世紀末の文禄年中に近衛信輔が薩摩の坊津に流された時、春日・天満の2社を下伊敷村に創建し、その別当寺(神社を管理する寺)として建てられたとか。そのあと江戸中期に一乗院の堯周が現在地に移したとのことです。地元の皷川町内会の方の話では、大変ご利益のある地蔵菩薩で、そのご利益のためか、この道路はカーブも多く、道も狭いわりには、事故が少ないそうです。また、毎年、7月24日は、あいご会の子供たちが灯籠の絵を描き、六月灯を行っているということです。

  • 2021年09月05日(日)

    日本史おすすめ本 その13

      夏休み期間に本の紹介をしてきましたが,これからは週末に,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (13)

  • 2021年09月04日(土)

    学校周辺の史跡 その9 ~橋之口城

    橋之口城

     実は本校の場所そのものが,史跡です。上図のように,室町時代の島津氏の拠点だった「清水城」(現清水中学校及びその北側の山地)の支城の「橋之口城」(現在の住所表記で,東坂元3丁目の地域。)だったのではないかとされています。

     現在本校のある葛山、東坂元3丁目の地域は、室町時代には橋之口城と呼ばれ、清水城(現清水中の裏手)北側の「搦め手口」(城の裏門)にある山城です。名称は実方橋に因むのではとされます。
     清水城は、1387年島津家7代元久が築き、以後14代勝久に至る約160 年間、薩摩・大隅・日向の守護の拠点として鹿児島本城と言われました。平城と山城で構成された清水城の城下には、武家屋敷や寺社・町屋がひろがり、かごしまの町(上町地区)の発祥となりました。山城部分は、北側を吉野台地と堀切(空堀)で区切られ、東側は稲荷川に沿う断崖で、西側は鼓川の広い谷で守られています。台地を東西に分ける堀切は、東側の主曲輪群を防衛するとともに、通路としての役割をもつ壮大な空堀となっています。平城部分には、守護所としての屋形があり、正面十二間(約21m)の巨大な御主殿や御前様屋敷・厩(馬屋)などが建っていました。1550年、15代貴久が内城(現大龍小学校)を築いて居城としたため、清水城は空城となりました。屋形跡には大乗院が建てられましたが、1869年に廃仏毀釈で廃寺となりました。現在は清水中学校となっています。

    清水中と本校の位置

     こうしてみると,両者の位置関係がよく分かります。島津氏はふだんは屋形(現清水中)で政務を執り,いざ合戦となれば,裏手の山城にこもります。橋之口城はさらにその北側にあたり,裏門を守る位置にありました。本校のある場所が,島津氏の歴史に関わっていたことが分かります。

     その後島津氏は15代貴久の時に,内城(現大龍小学校)に移り,その後18代家久(薩摩藩初代)の時に鶴丸城を造って移ります。

     

  • 2021年08月29日(日)

    学校周辺の史跡 その8 ~関吉の疎水溝

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    疎水溝地図

     本校の最も一番近くにある「世界遺産」は、「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産の中の「関吉の疎水溝」 です。疎水溝は関吉の取水口から実方を通り、大明丘、雀ヶ宮、落し、磯の仙厳園のところまで続きます。  

     稲荷川の上流、関吉から磯までの約7kmおよぶ用水路である。元は島津家21代吉貴が隠居した頃に造られたとされる。28代斉彬は集成館事業のためにこの用水の流路を一部変更し、動力源として利用した。今でも実方橋の手前まで農業用水として利用されている。平成27(2015)年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」として登録された。稲荷川上流で水をせき止め、取水した水を約7kmにわたって運ぶ疎水溝を、高低差の少ない吉野台地上につくるには、水路を一定の傾斜で築く必要があり、きわめて高い技術が要求された。こうした困難を克服して疎水を引き、疎水の端部にあたる磯の裏山に貯水池を設けて水路・懸樋(かけひ)で落とされて、運ばれてきたた水が工場群の動力や用水に利用された。疎水溝は、昭和46(1971)年頃の大明丘団地造成によって埋められ、現在は実方橋の手前で途絶え、約3kmが現存するのみである。

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     平成30(2018)年10月18日(日) 大明丘地域コミュニティ協議会の方から依頼を受け,ウォーキング大会で,本校生徒が,関吉の疎水溝のガイドを行いました。スタート地点の大明丘小学校で、はじめに開会式と疎水溝のガイドを行いました。

     疎水溝の取水口から、磯までの水路を、地図を貼り合わせて作成し、たたみ3枚ほどにまとめました。大明丘小学校の子どもたちもたくさん参加していましたので、クイズ形式で行いました。

    181018疎水溝ガイド

     上の写真は、協議会便りに載せられたものです。

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     総勢70人程で、疎水溝をたどって、取水口の方まで歩きました。

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     現地で、ガイドの方の説明を聞きました。そのあと記念写真をとって、稲荷川添いを通って帰りました。

     なおガイドで使用した疎水溝のパネルは、その年の本校の文化祭でも掲示しました。

     

  • 2021年08月28日(土)

    日本史おすすめ本 その12

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (12)

  • 2021年08月27日(金)

    学校周辺の史跡 その7 ~東目筋

    薩摩街道

     水色の線が,西目筋。ピンクの線が,東目筋です。

     江戸時代,薩摩藩の陸上交通における領外への幹線街道は,西目筋と東目筋に分けられていた。西目筋は鹿児島城下→(西田橋)→伊集院→市来→串木野→川内→阿久根→出水と続き,豊前・小倉に向かい,東目筋は鹿児島城下→実方→吉野→吉田→(白銀坂/2006国指定史跡)→重富→加治木と続き,そこから大口筋,加久藤筋,日向筋(高岡筋)と3方に分かれていく。日向筋は,その後海路で大坂・江戸へ向かっていくことになる。

      東目筋は,明治6年(1873)海岸線が重富まで開通するまで,この吉野-白銀坂が重要な道路だった。鶴丸城→上町→たんたど→実方(太鼓橋,御内用方,別府晋介・桐野利秋誕生地,実方神社)→帯迫(現吉野小,第12郷校,吉野私学校,吉野薬園)→御召覧の岡→菖蒲谷→関屋谷→牟礼ヶ岡→吉田→白銀坂へ

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     東目筋は本校生徒がいつも利用しているバス路線と重なっています。鶴丸城から10号線を北東へ,柳町→大龍小学校前→玉龍高校前→鼓川→お茶の水→たんたど→東高校下→東坂元四丁目→葛山入口バス停を過ぎて左に曲がり(写真の所です),実方方面に向かいます。この道は西南戦争の時に,西郷さんが行きも帰りも通っています。

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    東目2

     平成29(2017)年9月30日 観光ガイドで、本校生徒が東目筋についてガイドしています。

     後半は西南戦争で敗走する西郷軍がこの道を通り,城山まで突入する時の話をしています。

     明治10(1877)年2月15日西郷隆盛ら挙兵し、西南戦争が始まった。西郷軍は熊本城を包囲したが落とせず、3月田原坂(熊本)で政府軍と激突し敗走、6月人吉(熊本)、7月宮崎方面と退却し、政府軍の包囲網を突破して鹿児島に帰り、城山にこもり、9月24日城山も陥落、西郷以下、桐野利秋、別府晋介ら討ち死にし、7ヶ月に及ぶ戦闘は終結した。
     城山に帰る途中、江戸期の東目筋のルートを通り、帯迫・実方で、西郷軍と政府軍が戦っている。西郷軍は蒲生→吉田→吉野へ南下。9月1日帯迫→実方→稲荷町→城山へと進んだ。対する政府軍は、南下する西郷軍を迎え撃つため、第2旅団(坂元→下田→川上)と新撰旅団(たんたど→実方→帯迫)の二手に分かれて進み、この内新撰旅団と西郷軍が衝突した。
     9月1日午前10時05分 帯迫の戦い。西郷軍が吉野私学校(現吉野小)で休憩している時、政府軍から攻撃あり。西郷軍の前軍は辺見十郎太が率いて鹿児島に突入。中軍の貴島清は帯迫で戦い、後軍の河野主一郎が実方橋を守った。辺見が負傷したので、河野が代わって指揮をとり、私学校から米倉(現鹿児島市役所)を砲撃。
     9月1日午後1時頃 実方の戦い。河野は鹿児島での応援を求められ、水間蓮に40余名を残して実方橋を守らせた。翌2日に実方は政府軍に占領された。前軍の西郷は、護衛されながら、城山に入ったと思われる。

  • 2021年08月26日(木)

    日本史おすすめ本 その11

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (11)

  • 2021年08月23日(月)

    日本史おすすめ本 その10

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (10)

  • 2021年08月22日(日)

    学校周辺の史跡 その6 ~実方橋

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    (上)現在の実方橋の写真です。平成5(1993)年のいわゆる「8・6水害」以後掛け替えられました。

    (下)流される前の実方橋の写真です。

    史跡カード(実方橋)-1

    実方周辺地図

     地図の出典:西元肇『吉野台地の史跡 石碑・石塔を読む』(1999.8)

     本校から、実方方面に向かって進むと、実方橋が見えてきます。今まで紹介してきた史跡を、西元さん作成の地図で確認してみてください。

     実方太鼓橋は、江戸時代「東目筋」と呼ばれる、鹿児島と重富方面を結ぶ重要な道路にかかる橋として大切な役割を持っていた。しかしいつごろだれが作ったかについては橋に銘もなく分からない。昭和61(1986)年鹿児島市が学術調査をしたが、年代・作者は不明で、江戸初期と言われている。当初は木橋だったが、のち石橋に改められたのではないか。平成5年(1993)のいわゆる「8・6水害」で流出し、同7年3月新しく鉄筋コンクリートの橋が架けられた。
     また以前触れたが、平安中期の歌人藤原実方の歌「いかにせむ久米路の橋の中空に渡しも果てぬ身とやなりなむ」に因んで、この橋を実方橋といい、周辺の地名になったのではないかとの説がある。
    「久米路の橋」は「役の行者が神に命じて、大和の葛城山から吉野の金峰山まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったために完成しなかったという」との故事から、多く和歌で自分の恋が成就しないことの例えとされる。

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    七海3

    平成29(2017)年9月30日 観光ガイドで、本校生徒が実方橋についてガイドしています。このミニツアーに参加された方は、とても熱心に聞いて頂きました。

  • 2021年08月21日(土)

    学校周辺の史跡 その5 ~平田可竹庵跡

     本校から、実方方面に向かって進み、実方橋を渡る手前で左に曲がり、20mほど進むと、左手が平田可竹庵跡になります。

    可竹庵跡1

    (上)道路を挟んで両側一帯が可竹庵跡です。特に説明板はありません。(下)右手の高台を、坂の上から見た写真です。

    可竹庵跡2

     城山の近くに薩摩義士碑がある。江戸中期の木曽川治水工事を担当した、有名な家老平田靭負ら薩摩藩士の顕彰碑である。実は本校の近くに、その同族でないかと思われる人物の、平田可竹(宗弘)が、晩年過ごした跡があるのだ。
     戦前の吉野の郷土史家平田猛著『吉野の史蹟』に、江戸初期の弓術の達人平田宗弘の話が出てくる。宗弘の祖父は射術を日置流東郷重尚・吉田印西に学び、代々射術の達人で門弟も多数あった。宗弘はその他兵法・書画・和歌等多芸多能で、藩の吟味役も勤め、四十歳で出家し四国遍歴もしたそうだ。十八歳の頃二張の弓を同時に引いたり、百射百中を披露したりとの逸話が残る。実方橋の近くに可竹庵を作り晩年そこに住んだらしい。

     

  • 2021年08月19日(木)

    日本史おすすめ本 その9

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (9)

  • 2021年08月19日(木)

    学校周辺の史跡 その4 ~実方神社

    実方神社写真

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を渡り、坂道を上ると、信号があります。そこから左ななめに進むと、実方神社があります。 

     神社の創建など由緒については、資料が何も残っていないのではっきりしたことは分かりません。天照大神、大山祇神(山の神)を祭っていて、古くから地域の産土神(鎮守の神)として崇敬されています。神殿には石造の御神体と菅原道真の木像が安置されています。明治12(1879)年に、天神山にあった天満宮の菅原道真の木像が 実方神社に一緒に祭られました。その木像の胎内に由来が次のように記されています。
     鹿児島の天神山(実方の少し北の所)に、宮之城島津家5代目久竹公の別邸がありました。久竹公は以前から学問好きで、天神山にお堂を作り、学問の神様菅原道真公の像を祭り、別邸の守り神にしようとしました。そこで江戸前期の貞享3(1686)年に、家臣の鳥居忠有が、菅原道真の像を作りお堂に納めました。実方神社の案内板には「祭神は平安時代の歌の神様である藤原実方ではないか」と書かれています。藤原実方は、源氏物語の作者紫式部とも関係があり、百人一首にも採用され、当時有名な歌人でした。

     本校の一番近くにある、学問の神様をまつってある神社です。3年生はこれから進路実現に向けて頑張りましょう。

  • 2021年08月17日(火)

    学校周辺の史跡 その3 ~別府晋介誕生地碑

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を通り、しばらく進むと道路脇左手に四角い石を4つ重ねたものがあります。これが目印です。ここを左に曲がっていくと,途中左側に入ると第1回で案内した「御内用方跡」があり,曲がらずに過ぎると,右手に「別府晋介誕生地」があります。 

     別府晋介は弘化4年(1847)実方に生まれ、桐野利秋はいとこに当たり、この2人は実の兄弟以上に仲が良かったと言われています。
    別府は戊辰戦争で活躍し、常備隊の小隊長に任命されました。西郷隆盛を厚く尊敬していて、西郷の上京に同行したり、朝鮮半島への視察等、腹心として仕事をしました。しかし明治6年西郷が征韓論争で敗北して下野すると、別府は桐野と共に帰郷します。その後私学校の創設に尽力して若者の育成に努め、加治木郷の区長になりました。明治10年の西南戦争でも独立大隊の隊長として奮戦します。9月24日、銃弾を足に受け動けなくなった西郷が切腹を覚悟すると、別府晋介は駕籠から降りて「御免なったもんし(お許しください)」と叫びながら西郷の介錯をしました。その後、自身も岩崎谷で自決しました。31歳という若さでした。この日、死を覚悟した別府は自分の側を離れようとしない部下に「早く逃げろ」と叱った話が伝えられています。また、自身の俸給を部下に分け与えたという逸話からも、別府の人柄は公平無私であった事がうかがえます。

     20170930別府晋介入口

     ミニツアー参加者を案内しているところです。左端のオレンジの方は本校平成11年度卒業生で、ミニツアーの企画をされました本田静さんです。

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     平成29(2017)年9月30日 本校生徒が観光ガイドをしたときの様子です。生徒会長をしていた田中君のガイドです。しっかり石碑を手で示して説明しています。

  • 2021年08月15日(日)

    学校周辺の史跡 その2 ~桐野利秋誕生地碑

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を通り、坂道を上って,信号を右に曲がると,桐野利秋誕生地碑があります。今は実方公園になっています。 

     桐野利秋は、天保9年(1838)吉野村実方で生まれた。幼少から示現流の立ち木打ちに徹し、文久2(1862)年島津久光に従って上洛し、勤王の志士として名を馳せた。西郷隆盛からも認められ、戊辰戦争では東北にまで転戦して活躍し、維新後陸軍少将となった。その後熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長となったが、明治6年征韓論争により帰郷し、私学校を設立し、吉田で開墾に励んだ。
     明治10年の西南戦争では、薩軍の総参謀となり大活躍したが、同年9月24日城山の岩崎谷口で生涯を閉じた。
     無学文盲と言われたがそんなこともなく、同時代の勝海舟や大隈重信にも評価されていた。また、洒落者として有名で、陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。

    20170930桐野ガイド

     平成29(2017)年9月30日 本校生徒が観光ガイドをしたときの様子です。写真左端がガイドの生徒です。

     

  • 2021年08月10日(火)

    日本史おすすめ本 その8

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (8)

  • 2021年08月09日(月)

    学校周辺の史跡 その1 ~御内用方跡(藩の製紙場)

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を渡ってしばらく進んでから左に入ると、御内用方跡がある。それは薩摩藩主御用として、最上質の紙を製造していた紙屋の跡である。古代の薩摩国は、税として紙を納めていた。江戸初期に薩摩藩は楮(紙の原料)の品種改良を試み、美濃国から技術者を招いたりした。また3代島津光久は、領内に楮を植えさせ、女子に紙漉きの技法を習わせ、各所に紙屋を設けさせた。そのため古くからこの地では下級武士が携わり、武家の妻女が従事していた。幕末の志士桐野利秋も少年の頃より農業を行いながら、紙漉きも従事して、家計を助け母を養っていたという。実方橋のすぐ上流の岩で、楮をたたいて柔らかくしたり、実方神社の真下の疎水溝の水を用水として利用していたらしい。楮をたたく音が、ちょうど太鼓を打つ音に聞こえ、鼓川、たんたどの地名の由来とされる。明治後も製紙は続けられ、実方紙として市内でも販売されていたとの話である。

  • 2021年08月08日(日)

    日本史おすすめ本 その7

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。これから,日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (7)

  • 2021年08月07日(土)

    本校所在地「葛山(かつらやま)」の由来について。

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     本校2号棟4階(化学室前)から,北側を見た風景です。

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     写真中央に鳥居が見え,その上に実方神社が見えます。

     本校所在地の葛山の由来について、葛(かづら)が群生していたためと説かれることが多いが、ここでは葛城山説を考えてみたい。
     本校校舎4階から北側を見ると稲荷川を挟み実方神社が正面に見える。神社の説明板には、実方という地名は平安中期の歌人藤原実方に由来するとある。『新古今和歌集』にある実方の歌「いかにせん久米路の橋の中空に渡しも果てぬ身とやなりなん」から採って実方橋となり、周辺の地名となったとされる。
     歌中の久米路の橋は、役行者が(奈良の)吉野山から葛城山に架けようとした伝説上の橋のことだが、鹿児島の吉野から実方を挟み、本校の葛山に至る位置関係が類似している。葛山が奈良の葛城山に因むと考える所以である。こじつけと言われそうだが、周辺地域には古歌や伝説に関わる地名が多く見られ、近世初期の和歌を好む島津の殿様が、地名の名付けをしたのではないかと思われる。

     

     

     

     

  • 2021年08月04日(水)

    日本史おすすめ本 その4~6

      夏休みに入って1週間。長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。これから,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (4)

    日本史おすすめ本 (5)

    日本史おすすめ本 (6)

     

  • 2021年08月03日(火)

    日本史おすすめ本 その2,3

      夏休みに入って1週間。長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。これから,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (2)

    日本史おすすめ本 (3)

  • 2021年07月31日(土)

    日本史おすすめ本 その1

    7月30日(金)

      夏休みに入って1週間。長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。これから,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (1)

  • 2021年07月15日(木)

    特等席で見る桜島

    7月14日(水)朝 雲海に浮かぶ桜島

    IMG_2543

     私の勤務する鹿児島東高校で自慢できるものの一つは桜島である。正門に入り振り返ると雄勁な桜島が見える。また教室から見ると、錦江湾の向こうに桜島が見え、大パロラマの眺望である。初めて赴任し教室から見た感動は忘れられない。桜島は奈良時代の記録に初めて「麑島」と現れ、鹿児島と呼ばれていた。その後向島と言われるが、どこから見ても海の向こうにあり、同じ向きとの意味である。さらに大隅国司の桜島忠信の故事に因み、そこで初めて桜島という名称が生まれ、江戸前期に正式に桜島になったそうだ。では鹿児島の由来はどうか。諸説あるが、「鹿が多かったから説」より,個人的には(噴火で)「輝く島」説(かぐや姫や火神のかぐつち神と同源か)が良いと思う。本校校歌の2番に「秀麗聳ゆ桜島 紅き炎は空そむる」とあり、そのイメージにぴったりだからだ。また江戸期の記録には「千態万状の奇」とあり、朝夕その姿を変え、普段私達の目を楽しませている。

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    令和3年2月19日         令和3年5月31日

    210607桜島1210610桜島

    令和3年6月7日          令和3年6月10日

  • 2021年06月07日(月)

    ナワミン学校について

    ナワミン

    ナワミン学校のホームページを見てみると,平成29(2018)年に,本校生徒らがナワミン学校を訪問した際の記事を見つけました。

    ナワミン学校HP上の記事[PDF:410KB]