コラム

  • 2024年01月01日(月)

    謹賀新年

     新年,明けましておめでとうございます。

     令和6(2024)年も鹿児島県立鹿児島東高等学校をよろしくお願い申し上げます。

    旭日 

  • 2022年03月21日(月)

    東高校の歴史 その6

    葛山時代

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    (写真)県立鹿児島農業高校(『創立40周年記念誌』H2.2より)

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     (写真)県立鹿児島農業高校(『かつら山』2号/S42.3より)

     昭和39(1957)年3月に,伊敷の農芸高校は再び統合され,伊敷分校となりました。しかし同4月に県立移管されて鹿児島県立鹿児島農業高校となりました。またそれまでの吉野町帯迫から,現在東高校の所在地である坂元町葛山に移転することになりました。葛山時代の幕開けです。そして4年後の昭和44(1969)に校名変更して,ついに鹿児島県立鹿児島東高等学校が誕生します。
     実は農業高校誕生直前に,昭和36年の農業高校論争のような「園芸高校廃校問題」が起きました。関山一二(吉野小・中,園芸高校PT副会長)「鹿児島園芸高等学校の廃校問題について」(『吉野史談』18号)によると,発端は39年秋吉野地区青年団中堅幹部例会(吉野寺)でのことです。出席していた平瀬実武市長が「園芸高校は志願者が少ないので本年限りで廃校にする」と発言し,一同寝耳に水といった感じでした。関山氏は川村校長を初め満PTA会長,馬場信男県議に相談し,PTA総会を開いて廃止反対を決議し,寺園知事に陳情しました。吉野地区全体に廃止反対運動が広がり,最終的には存続決定となりました。しかしながら国内の農業衰微に伴う社会情勢の変化には叶わず,その後の歴史に影響を及ぼしていくことになります。
     鹿児島農業高校初代校長は,川村校長です。園芸科・農産化学科・家政科の3学科が設置されました。同年現在使われている校章も制定され,翌41年には校歌,女子制服が制定されました。同44年に鹿児島東高校の開校です。初代校長は引き続き川村校長です。

    川村校長顔  ←川村純二校長です。
     初代校長の川村純二先生について,平成13(2001)年12月7日付南日本新聞に次の記事があります。
      企画[死亡]川村純二さん/鹿児島市立美術館元館長,91歳
     戦後の鹿児島県教育界の発展に貢献し,植物学や郷土史の研究を通して郷土の文化人として活躍した川村純二(かわむら・じゅんじ)さんが六日,脳内出血のため鹿児島市立病院で急死した。九十一歳。鹿児島市出身。(中略)
     明治43(1910)年生まれ。鹿児島師範卒。同校教諭を経て,1945年に鹿児島県庁に移り,産業教育課長,社会教育課長など歴任。鹿児島東校長から4代目の鹿児島市立美術館長に就任。以後1981年まで11年にわたって収蔵品の充実や本館改築など,新時代に即応した美術館の基礎を築いた。県文化財保護審議会委員,鹿児島市文化財保護審議会会長を歴任。南日本出版文化賞(南日本新聞社主催)の選考委員も永年務めた。サクラジマハナヤスリ(シダ)の新種発見でも知られる。

     とあります。東高校校長に就任した際は59歳で,1年勤めて定年退職されたようです。

    川村記事

    (出典)田川基二「新種サクラジマハナヤスリ」(『植物分類,地理』8(2)/1939年)

     『創立記念誌』から当時の様子を見てみます。川村純二(鹿児島東高校初代校長)「県立移管の思い出」(40-p.79 )によると,昭和39(1964)年4月鹿児島園芸高校と農芸高校を統合して全日制高校とし,園芸科・農産化学科各1学級,家政科2学級,校舎は新しい校地を選定して新築し,県立に移管するという方針が決定した。現在の葛山に決定したのは,大明丘団地ができる1年前だった。園芸高校の跡地には県立養護学校が新設され,園芸高校に植栽されていた樹木は全て新しい学校の緑化に利用してよいことになり,PTAの事業として移植することになった。翌40年には鹿児島農業高校の校庭・緑化・防風垣・造園実習の材料として利用された。市内では最も規模の小さい高校だったが,市街地に近く市内の通学の便もよくなり,校舎も格段に完備され新しいものだったためか,受検者は定員の2倍を超えた。入学試験は鹿児島県立短大校舎を借りて行った。施設・設備以外にも問題があり,伊敷・吉野地区を中心に遠くは郡山町の入来峠から指宿・喜入地区,吉田・桜島地区という遠距離通学が多いこと,市内からの入学者は増えたとは言っても,園芸科・家政科に相応しい者というよりは,この科なら合格できるからという理由で入学した者が大部分だったことである。入学式の翌日にバスを仕立てて,園芸科の生徒父兄にみかんや観葉植物栽培で成功している実際を見学させ理解を深めさせが,不本意入学のため生徒指導上の問題を引き起こした。そのため解決するために教育相談徹底,全職員で生徒指導に当たることにした。ちょうど「生徒指導の手引き(文部省)」が刊行されたので全職員で読んだ。生徒の服装や髪型まで細かく取り決め,違反は厳しく取り締まった。運動場は狭かったが,開校当初から男子サッカー部は活発だった。
     瀬戸山弘(鹿児島農業高校旧職員)「鹿児島農業高等学校の新設時をふりかえって」(40-p.83)によると, 吉野園芸と伊敷園芸の合併,県立移管の計画,新設学校の設計が当時の教頭永田胖先生の手により出来上がった。園芸科2(?),家政科2,農産化学科1学級で全生徒 600名。県管理課と市教委総務課との移管条件がかみ合わず,39年5月18日第1回合併打合会が開かれ,6月22日には敷地検討のため初めて葛山を訪れた。あまりに人家・樹木のない原野,錦江湾を眼下に,桜島を正面にして「こげん素晴らし眺めの学校は他になかど。(しかし)作物は吹っ飛ばさるっどなあ」。県産業教育課の上山典美,園芸高農務主任の鹿屋誠,瀬戸山氏の3人で検討した。県の計算では,農地は極めて狭く,校舎も崖上で危険なので,市営住宅予定地への拡張を願ったが無理で,苦しい校舎配置となった。基礎工事も2階までと制限された。市側からは机・椅子は今までの物を運べ,落雷の多い葛山だが避雷針の予算はないと手厳しい。
     東隆(鹿児島東高校旧職員)「思い出のいろいろ」(30-p.88) によると,40年4月新任の挨拶のため吉野の園芸高校を訪問すると植樹作業の真っ最中で,「明日から作業服を持ってきなさい」との校長の一言あり。翌日朝から晩まで吉野・伊敷から新校舎に運んでくる樹木を植えたり,机椅子を運んだりした。新校舎は山を切り開いた造成地だからただシラスの台地が続いているだけで樹木は一本もない。当初の計画では農業科(園芸科?)・農産化学科・家政科各1で,合計9学級で発足する予定だったが,女子の受験生が多いところから,臨時に家政科を1増やし2学級とした。市内の普通高校はどうしても男子が多く,女子にとっては狭き門だったそのため女子だけの普通科を東高校に設置することになり(市内中学校長会の要望),家政科の2は女子普通科4,さらに6学級に増加した。もともと9学級で発足した学校だから,教室が足りず,プレハブ校舎で間に合わせた。当時県は錦江湾高校の整備に力を入れ,東高校まで手が回らないのだろうとひがんだ。青森県弘前市に柏木農業高校という姉妹校があった。修学旅行の際必ず本校に立ち寄った。東高校に変わった頃から交わりは絶えたようだ。雨の日はシラス台地のためちょっと雨が降るとすぐぬかるんだ。
     伊藤靖彦(鹿児島農業高校旧職員)「葛山台地に,新しい学校の学校園作りに従事して」(40-p.95) によると,園芸・農芸高校が合併して昭和40年4月県立鹿児島農業高校が創設された。このときトラック50台の庭木を移植した。植樹は男子で行い,女子はバケツで灌水をした。新任の先生は赴任当初から生徒と一緒に一生懸命頑張った。園芸科は2年次から園芸コースと造園コースに分かれ学習した。40年代は高度経済成長期で住宅建設も盛んで造園の仕事は注文に応じきれない程だった。各県とも造園科が出来る時代だったが,鹿児島は造園コースで代用していた。
     有馬英子(鹿児島東高校旧職員)「昔話を訪ねて」(40-p.96) によると,40年4月県立鹿児島農業高校新設時から9年間在職した。前任を引き継ぎ「民俗研究班」の顧問を引き受けた,とあります。

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    (写真)鹿児島農業高校(のち東高校)生徒会民俗研究班メンバー

     ここでの活動をまとめた『葛山民俗』が第15号まで発刊されており全て東高校図書室にありました。

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     中身は部員が県内各地に伝わる昔話を採録したもので,まず地域を訪問し,お年寄りを訪ね聞き書きしたり,テープレコーダーに録音して後で起こしたりして原稿を作り,それを印刷します。有馬氏「『葛山民俗』の歩み」(『葛山民俗』12号)によると,鹿児島農業高校が新設された昭和40年に民俗研究班も生徒会活動の一環として生まれ,6月17日に山下欣一先生を顧問として,班長吉元公明君,副班長栫徳子さんほか男子21名,女子13名計34名で結成された。8月に桜島・吉田町,11月に吉野町・犬迫・小山田,2月桜島町二股を調査し,41年3月に創刊号が発刊された。桜島研究報告を主としたものだ。41年度は吉野町の調査,在校生の親からの聞き取りや録音。翻字作業に手間取り,刊行見送り,42年度も継続し,第2号発刊。43年に第3号,4号発刊。印刷費が数千円と限られていて部員で用紙を切り,印刷・製本を印刷所に依頼した。またこの年から会報を年数回出すようになった。44年度鹿児島東高校と校名変更後,山下先生の後を有馬先生が引き継いだ。創刊号の編集後記に班長吉元君が「葛山の新装なった校舎で新しい伝統を造り出すためにがんばった」とあり,新聞にも紹介された。生徒の自主的な活動で校外から注目されたようです。

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      (上写真)聞き取りの様子です。

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     (上写真)編集会議の様子です。
     また家政科が設置されていた関係か,農業高校家庭クラブも『らん』という研究誌を昭和43年に創刊しています。本校図書室に創刊号~第4号まで所蔵されていました。1・2号は文集的性格でしたが,3・4号は「一人一研究」という専門的な内容に変わっていきました。

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     (写真) 家庭クラブ研究誌「らん」です。

     満道男(鹿児島農業高校昭和42年卒)「合併,統合,移転」(40-p.98) によると,いよいよ移転が始まると,みかんの樹や庭木の植えいたみを少なくするために,移植期間の雨降りの日を選び,細根の掘り出し,植穴掘りをした。移転後も雨が降ると校庭に水たまりができ,通学路はたびたび土砂崩れを起こし,台風対策など大変だった。
     栫誠耕(昭和39年鹿児島農芸入学,昭和42年鹿児島農業高校卒)「思い出すことなど」(50-p.89) によると,県内の農業系の高校による測量大会があり,鹿児島農業が最優勝となり群馬県の全国大会に出場することになった。また学校で 200羽の鶏を飼っていて日曜登校してえさやりをしていた。
     最後に,昭和40年に制定された校章の由来について。伊藤靖彦(旧職員)「校章のデザインについて-『かつら山』昭和42年2月号から-」(30-p.95) によると,鹿児島農業高校は県の中心にあり,都市近郊園芸を主体に研究し勉強する学校である。それまで他の市内の高校に対してコンプレックスを持っていたが,県立移管を契機として農業に従事すること,農業高校で勉強することに誇りを持てるようなシンボルを考えたいと思った。本校ではレタスなどの洋野菜,花,果樹,庭園樹を栽培しているが,その生産物はいずれも自然の芸術品で,その中に美しさを見出せるような人間を育てることを理想にしている。このような感じに最も相応しいのが「らん」の花である。校章はモチーフとして「かんらん(寒蘭)」の花を用いた。寒蘭は暖地の山林中に自生している多年生草木で,花は11月頃より1月まで寒い季節に咲くので寒蘭の名が付いた。花はたいへん香りが良く,葉も美しく広く観賞用として培養され,中国でも高貴な花として尊ばれている。そのような寒蘭の気品を学校の象徴として考えた。図のように外弁の3つは校訓の自律,自修,自重を表し,上の一枚は未来に伸びる若い青年の進展を,二枚は大地にしっかり足をつけた堅実さを表した。高の字は中心よりやや下方にひかえて安定感を与え,全体が上方に伸び伸びとした勢いを感じさせるようにした。寒蘭は山の中の雑草として,人知れず生育し,その清らかな花の姿と香りを持つので,広く栽培されるようになった。こんな花をこの上なく愛し,学校の校章としてデザインした。東高校もその校章を継承しています。

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     なお昭和41年制定の校歌(作詞:椋鳩十,作曲:武田恵喜秀)についてはコラムの別の所で触れましたので,それぞれ参照してください。

     校歌1校歌2椋鳩十1椋鳩十2武田恵喜秀

     

  • 2022年03月15日(火)

    東高校の歴史 その5

    園芸・農芸時代

     昭和32(1957)年吉野地区に鹿児島園芸高等学校が出来ました。伊敷は,園芸高校分校となり,34年に鹿児島農芸高校として独立しますが,40年に統合されます。この時期を仮に,「園芸・農芸時代」としたいと思います。吉野の園芸,伊敷の農芸です。
     両校とも33年に創立10周年記念式典を挙行しました。園芸高校は久保校長が初代校長となり,36年退任し頴娃高校へ転任します。2代校長は川村純二校長(県社会教育課長から)です。川村校長は後で鹿児島東高校の初代校長にもなり,以後都合7年間勤めることになります。

    久保校長顔  川村校長顔  川村純二

    伊敷分校の初代校長は引き続き酒井清校長です。34年農芸高校として独立した後は初代校長は中園喜節校長です。同5月に独立開校記念式典を挙行します。39年に中園校長が退任(日新高校へ)した後は,2代奥哲香校長(大村高校から)です。40年3月に園芸高校に統合されその幕を閉じます。

    中園校長顔  奥校長顔
     『創立三十周年記念誌』には,当時の新聞記事が多数掲載され様子が分かりますので,それを中心に見ていきます。

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    (上写真)フランス菊の切花出荷の実習作業

     昭和30年年代前半は開設当初ということもあり,県下唯一の園芸高校として評価が高いです。鹿児島は気候高温に恵まれ,暖地に適した野菜・果樹・花卉の栽培や,畜産・農産加工等の技術指導に重点を置いている。観賞用の熱帯植物・造園熱も盛んだ。 100坪の温室で 100種類以上の珍しい熱帯植物を栽培している。生徒の9割は農家でその内半数は鹿児島市近郊で遠くは奄美・種子島等からも来ている。3~4反の畑地では普通のやり方では駄目で,程度の高い園芸を望み,卒業生の半数以上が自営を希望している。市は1人1万円支給,毎月10名ずつ1ヶ月,静岡・愛知等先進地域へ実習にやっている。就職先は観光事業・肥料・農薬・種苗・農機具・食品工業,将来は都市緑化や観光に期待している。切花販売では,男子生徒が生け花に熱中し研究している。植木市での苗木類は好評で,秋の菊花展示会は市の名物となっており,2000人以上の参観があるそうです。(西日本新聞S33.6.28)

    1-2 園芸校章

    (上写真)昭和34年相撲県大会 園芸高校初優勝 / 園芸高校校章 
     校内の樹木の種類の多さや珍しい植物や野菜等があり,観光バスのコースにもなっている。年間見学者3000人,1日 100人県内外から訪れる。一番力を入れているのは,菊の電照栽培で,温室3棟( 200㎡)に年3作で, 1.8万本が栽培されている。在学中先進地の福岡県糸島郡を視察した卒業生は 660㎡のビニールハウスで菊栽培している。市の補助金で昨年度は13人が視察に行った。果樹班は東桜島や吉野地区でみかんの根つぎを 600本して,今年は3000本予約ですでに 500本は送った。卒業生は自営,園芸方面に就職する者も多く,県・市の公園係,貸鉢業,造園業,観葉植物・造園・盆栽など,生徒の意欲は高く就職先も広がっている。(西日本新聞S35.4.9)

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    (上写真)園芸高校 温室菊栽培の様子
     しかしながら30年代後半は農業教育全般に関わる問題が顕在化してきます。
     鹿児島市近郊では農業に見切りを付け,他の職場に就職する傾向が強く,農村は年寄りだけの留守番農業になっている。市内の農業高校では,男子の半数,女子のほぼ全てが農業以外に就職しているという。36年度鹿児島農芸高校卒業生77人の内,農業科(男子のみ)36人の半数は京阪神の鉄鋼関係,市内の中小企業の工員・事務員で,家庭科(女子のみ)41人の9割以上は阪神・北九州の会社で農業とは無関係の就職だ。鹿児島園芸高校卒業生73人の内,園芸科(男子のみ)44人農業自営が10人,県外17人,県内外の工員等17人で,家庭科(女子のみ)29人は農業以外の就職だ。若者は学校の指導方針とは裏腹に農業にソッポを向いている。卒業生は30㌃ほどの経営では食っていけないという。池松教育長は両校の必要性,産業教育のあり方を検討する必要があると述べた。(南日本新聞S36.2.2)

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     30年代半ばに農業高校の危機が言われました。昭和36年5月の鹿児島市教育委員会の鹿児島園芸・農芸の両高校を廃校にして,工業高校に発展的解消をするという構想を発表したのがきっかけです。農芸高校同窓会の陳情書,高校教職員組合や地元民の反対があり,農業高校論争となりました。背景として,ベビーブームによる生徒数急増への対策があります。県としては高校再編により高校新設,学級増で7月中に結論を出す必要があった。国は新設工業高校だけにしか 1/3の補助金を出さない方針だった。また当時農家・非農家の所得格差が広がり,農村人口の地滑り現象,農家4割のクビ切り等,農業基本対策が出てきた。農業高校の生徒数を減らし,普通科・工業科に切り替えたら良いのではとの考えあり。しかし農業教育が花形の工業教育のしわ寄せになっている,現在の農業教育の目標にはスジ金が入っていないなどの反対意見もある。(南日本新聞 S36.6.22)
     昭和37年3月の鹿児島市議会の全員協議会で,池松教育長は両校の廃校は忍びないので,統合して県立移管することを県に陳情したいと述べた。ちなみに36年5月の市教委の計画した高校急増対策は,5年制工業高校の誘致は37年に誘致見通し(鹿児島工業高等専門学校のこと),普通科高校を市内に新設(鹿児島中央高校のこと),電気工業高校新設は,鹿児島工業高校に学科新設,玉龍・鹿女子・鹿商に学級増で対処となった。(南日本新聞S37.3.14)

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    (上写真)昭和38年に南北の農業高校で交歓会(6年前に姉妹校盟約)。南日本新聞S38.5.14
     瀬戸山弘(鹿児島農業高校旧職員)「鹿児島農業高校の新設時をふりかえって」(40-p.93) によると,昭和38(1963)年(36年の誤りか)秋に,突然夕刊に「園芸高校廃校と鹿児島市教育委員会案」が示された。廃校理由は市立4高校の中で,園芸高校一人当たりの教育費が存外に掛かり他の職業系の高校に変えようとの記事だった。職員の学校存続の熱意は激しく,早速この件で連日職員会議を行い,「本校の農業教育は県農政上からも必要」との資料が作成され,市教育長との面談を行い存続が確認されたとのことです。
     ちょうど昭和30年代は,30年~神武景気,34年~岩戸景気,39年東京オリンピックと,高度経済成長時代で,農業より工業を優先する風潮の中,そのあおりを受けた部分があったのではと思います。
     最後に,『創立記念誌』の中から当時の状況を見てみたいと思います。
     今福壓男(鹿児島園芸高校旧職員)「坂と山の思い出」(40-p.90) によると,今福氏は昭和31(1956)年に鹿児島農芸高校(大農芸)に赴任後9年間吉野の鹿児島園芸高校に勤務された農業の先生だったそうです。吉野は兼業農家を主とする都市型農村地帯で,早朝滝ノ神坂からリヤカーで,農家の女性が野菜の行商をされていた。生徒は吉野・谷山・桜島・吉田と各方面からのバス通学で,離島や指宿方面の人は寄宿舎での生活だった。氏は畜産が専門で,乳牛2頭,豚2頭,鶏百羽の小規模だったが,ハムやソーセージ作りを行った。苦労したのは牛の飼料作りで,草刈りが日課で,牟礼ヶ丘の島津興業の下草刈りをさせてもらった。夏休みには北部九州への県外先進農家実習があった。
     山口修(鹿児島農芸高校(伊敷)昭和36年卒)「伊敷の思い出」(40-p.92) によると,学校は現在の伊敷小の辺りで,コの字型に校舎が並び,二階建ての本館,講堂,農機具類を収納する倉庫等が並び,校庭には相撲の土俵,校舎裏には大きなヒマラヤ杉があったそうです。農業後継者の育成が目的で,生徒数は少なく1クラス30名余りだった。山口氏は農業科で,週1日は自宅実習で,5日登校。1週間おきに当番で日曜日に登校して家畜の世話をしていた。当時高度経済成長期で卒業生の半数は,県外の農業以外の分野に就職していたそうです。

  • 2022年03月12日(土)

    東高校の歴史 その4

    大農芸時代

     昭和25(1950)年に,吉野・伊敷・紫原3地区にまたがる鹿児島市立鹿児島農芸高等学校が誕生しました。これは鹿児島市高等学校組織改編によるもので,吉野分校が中心校とされました。のち伊敷地区で同名の学校が出来るので,区別するために,仮に大農芸高校,大農芸時代と称することにしたいと思います。

    原田校長顔   久保校長顔
     本校は同年5月に独立開校記念式典を挙行し,7月には校章が制定されました。吉野分校校長は初代原田誓之氏(大口高校から転任。昭和25~28年度),2代久保政司(県教委主事から転任。昭和29~31年度)であり,伊敷教場校長は酒井清氏でした。吉野分校は昭和29年に農業別科を募集停止となり,翌30年に家庭科定時制が新設されました。伊敷教場は28年に伊敷分校となり,30年には家庭科が新設されました。
     それでは,『創立記念誌』から当時の様子を見てみたいと思います。
     井上洋逸(昭和27年定時制農業科卒(吉野),同窓会長)「おもいで」(30-p.78),同「難儀無くして実りなし」(50-p.88)によると,井上氏は終戦の年14歳で,伊佐農林高校の1年生だったが,昭和23年4月から農業科定時制週4日出校の学校が出来るという朗報が入りすぐに飛びつき,その時の嬉しさは忘れられなかったとのことでした。教科は蔬菜部,園芸部,畜産部等があり,最初の1・2年は蔬菜部を選んだ。授業の大半は実習作業で,堆肥の増産,作付け,管理,除草,間引き等で,品評会や販売等も地区ごとの農協や学校で行った。白菜植え付けで,灌水作業はとても大変な作業だったとあります。後半3・4年は園芸部で勉強したそうです。菊作りでは用土作りが基本で,山に落葉拾いに行き,堆肥舎で発酵させ用土が出来る。灌水・施肥・薬剤散布・摘芽・摘花・大菊・懸崖作り・枝作り等一年がかりだそうです。卒業後花市場協同組合に3年半勤め,園芸家として自立したそうです。
     中森重喜(昭和28年3月鹿児島農芸高校卒(吉野))「四十年前のスケッチブックから」(40-p.89)によると,昭和24年に鹿児島高等学校第四部吉野分校本科に入学。当時県立養護学校(旧所在地で,現吉野いきいき公園)のある所で,正門入るとドラセラの木,黄金ヒバ,桜の木,白ツメ草の花が咲く素晴らしい環境だったそうです。授業は国社数理英,農業関連科目で,特に英語・数学は基礎基本を十分理解しないまま進学した者にとっては大変だったそうです。実習では中森氏は花卉を選び,温室で,ゼラニューム,シクラメン,洋ランなどがあり,作業はピンセットを使っての仮植・移植・水かけ・用土作りだったそうです。普通作の実習で馬車を利用し,畜産の実習では,にわとり・羊・痩せ馬・豚の世話を行い,蔬菜の実習では白菜・キャベツの植え付け・灌水・施肥等をしたそうです。下の写真は丹精込めて1年掛けて作った菊でしょうか。

    中森40-89
     江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和25年鹿児島農芸高校紫原分校ができ,生徒数80名,3教室が新設され,仮教室と併せて6教室になったそうです。当時は生活に追われ,昼間学校に来て勉強できる者は少なく,教師は夜生徒の所に行って各地区の公民館(当時は青年舎,クラブ)で夜間授業をしたり,食料事情も悪い中,校長自ら先頭に立って生徒の教育に当たられたそうです。当時百名以上の生徒が維持できれば独立校として認めるという市の意向だったが,80名にとどまり,昭和27年に廃校となり,在籍の生徒達は吉野の農芸高校や鹿大教育学部附属高校(伊敷)他に転校したそうです。下の写真は以前出しましたが,鹿児島農芸高校紫原分校の写真です。

    紫原2
     上山佐五次(旧鹿児島農芸高校教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和25年吉野,紫原教場は統合され,鹿児島農芸高校となり独立し,鹿児島教場は鶴丸高校の定時制として併設されたそうです。青年師範学校附属校(伊敷)は青師が鹿大教育学部に編入,昭和26年募集停止となり,鹿児島農芸伊敷教場として新出発となり,上山氏はその分校主事となったそうです。特色として登校しない日を有効活用するために,「ホームプロジェクト」を採用しました。それは親を地主として土地を借り受け,自ら栽培設計して,教師のアドバイスを受けながら家庭実習を行い,教師は各家庭を巡回指導し,生活指導・進路指導を行うというものでした。久保校長の経営手腕により進展し,園芸振興のセンター的役割を果たすべく施設設備の近代化,技術指導者の招聘,愛知・静岡の先進地への派遣等実績を上げたそうです。

    heiwajoyaku(写真)平和条約締結
     昭和25年には朝鮮戦争が起こり,特需景気がもたらされ,26年サンフランシスコ平和条約が調印され,翌27年に発効し,日本は占領期間が終わって独立国家としての主権を回復しました。28年にはテレビ放送が始まり,30年には保守合同で自民党が誕生し,55年体制がスタートしました。31年には日ソ国交回復し日本の国連加盟が認められ,経済的には「もはや戦後ではない」と言われ,神武景気となりました。こういった戦後再出発の時期に,「大農芸時代」としておよそ7年間,鹿児島の農業教育を担っていたと思われます。

  • 2022年03月06日(日)

    東高校の歴史 その3

    鹿児島空襲1

    (写真:上・下)鹿児島空襲S20.3~8月(平岡正三郎撮影)の写真

     ついで戦後の歴史について『鹿児島県教育史』下巻(1961年),『鹿児島市史』第2巻(1970年)で見てみます。
     昭和20(1945)年8月15日終戦となり,荒廃状況の中,教育再開が模索されました。鹿児島はかつて南進基地で特攻基地でもあった関係で,空襲もひどく,その被害率は全国一とされました。市街地の9割を焼失した鹿児島市内の学校では,26校が焼け,さらに直後に台風被害(枕崎台風)もありました。

    鹿児島空襲2


     戦後はアメリカを中心とする連合国軍による占領軍政下に置かれ,昭和21(1946)年にはアメリカ教育使節団が来日し,教育改革の方針を示しました。鹿児島では,軍政部が,昭和21年初代長官グレイズブルック中佐が鹿児島市庁舎内に事務所を設けてから昭和24年まで続きました。最も大きな影響を与えたのは民事教育課のヴォート氏でした。民事教育課の軍政官たちは急激な改革で,アメリカ方式をそのまま鹿児島に当てはめようとしました。

     昭和23(1948)に新制高等学校が発足しました。根本方針として,勤労青年教育を重視して定時制課程を多数設置,男女共学,講堂・図書館等設備充実を行い,学校統合が断行され,旧制中学,女学校を36校に統合し,部制を実施しました。これは鹿児島の実情を無視したやり方で,アメリカ軍政部の意向で,強力に総合制が実施されました。すなわち県立5校を統合し,鹿児島県高等学校と称し,鹿児島工業を第一部,第二高等女学校を第二部,第一高等女学校を第三部,第二鹿児島中学を第四部,第一鹿児島中学を第五部にしました。また市立4校と市立青年学校3校を統合し,鹿児島市高等学校と称し,市立中学校を第一部,市立女子興業学校を第二部,市立高等女学校と市立鹿児島商業を第三部,市立鹿児島・吉野・紫原青年学校を第四部(定時制3教場)にしました。しかし,昭和24年に鹿児島県鹿児島高等学校は第三部と第五部が統合し鶴丸高校に,第二部と第四部が統合し甲南高校に,第一部は鹿児島工業になりました。また昭和25年に鹿児島市高等学校は第一部と第二部普通科が統合し,玉龍高校に,第二部と第三部他が統合し,鹿児島商業高校に,第四部は鹿児島農芸高校になりました。なお昭和31年に鹿児島商業から鹿児島女子高が分離しました(以上鹿児島市史第2巻による)。

    部制時代

     (出典:『鹿児島市史』第2巻p.953~955により作成)


     東高校の沿革と比べて昭和23~24年の部分に異同が見られますが,最終的に昭和25年に鹿児島農芸高校になっていくようです。

    沿革史図


     最後に,終戦直後~部制時代の東高校の状況を『創立記念誌』で見てみます。前回紹介しました,江口武雄「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和23年新学制が施行され,紫原農芸青年学校は商業学校と一緒になり,鹿児島市高等学校第三部と称され,翌年玉龍高校,女子高校,商業高校をそれぞれ一部二部三部とし,紫原,伊敷,吉野の青年学校を第四部となったとあります。
     上山佐五次(旧鹿児島農芸高・教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和23年新制高校発足し,本県では旧青年学校が母体となって昼間定時制を主とした高校が多く設置され全国的に珍しいケースだった。鹿児島市の紫原,鹿児島,吉野の3青年学校があり,市は総合制の部制で発足し,3青年学校は第四部で教場が設置されたそうです。吉野以外は戦災で校舎ほか全部無一物,公民館や仮設の小学校を借用して,夜間貧しい照明の下で,蚊に刺されながらの授業だった。教科書も無く教師用意のプリントや新聞記事などを教材とした。生徒の大部分は,青年学校からの編入,兵役からの復員,軍需工場から放出された者等,高年齢者もあり,かなりすさんでいたが,次第に向学心を取り戻し,先生方も空腹に堪えながら青年たちと一緒に取り組んだそうです。
     家村綾子(昭和26年紫原教場農業科卒)「おもいで」(30-p.77)によると,昭和22年10月頃紫原の青年学校が体質改善,昇格して,新制高校の定時制高校となり,全日制には行けないが本人に向学の意志さえあれば入学できるという話が伝わってきて,そう裕福でもない農家の出だったが,手続きして入学したとのことです。市高校第三部紫原教場として開校し,入学。先生方7名,助手・用務員3名,生徒数は百数十名程だったそうです。

     泊口利道(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「学制改革期の思い出」(40-p.87)によると,昭和23年かつての紫原青年学校が新制の定時制高校として発足することとなり,先生方の勧めもあり,地区青年団の一部有志と語らい入学してみようとなり,地区の公民館で編入試験を受け,定時制高校3年生となったそうです。生徒は皆仕事を持った社会人で,平日は夜,休日は昼間の登校で,校舎は旧青年学校の焼け残り1棟でみすぼらしいものでしたとあります。発足当初は第三部で昭和24年に第四部と改称したそうです。

    s23大迫

     (上写真:大迫氏S25.3卒業時の写真。)
     大迫輝夫(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「紫原教場の思い出」(40-p.88)によると,戦争に2年間従事して復員し,当時の紫原青年学校に入学し,その後市高校紫原教場に編入したそうです。働きながら勉強する青年諸君が集まっており,農業従事,市役所職員,県職員,電電公社,中小企業など多種多様で,年令差も5~7歳ぐらいありました。平日は夕方5時30分から夜9時過ぎまで,5教科以外に農業に関する化学とか畜産関係の授業もありました。職場には教科書持参で4キロを自転車通学でした。日曜日は朝から出校して農業実習や体育授業,バレー大会は楽しいひとときでした。先生方は夜間と日曜出勤で大変だったろうと思います。
     戦後混乱期の中での教育など様々な苦労がしのばれる一方,戦前の青年学校での教育が受け継がれており,教師と生徒らが戦後復興を目指して努力された様子が伝わってきます。

  • 2022年03月02日(水)

    東高校の歴史 その2

    伊敷青年学校

    (写真)県立伊敷青年学校(『躍進の青年学校』より)

     東高校の直接の淵源は,青年学校になります。戦前に成立した『躍進の青年学校』(S16(1941)年)から紹介したいと思います。
     鹿児島県の青年学校数は 184校で,1町村平均数は 1.3校です。生徒数は59,640人です。
     県立青年学校が2校(伊敷,市来)で,町村立・私立が 182校あります。その内現在の鹿児島市内にあるのは,鹿児島・荒田・松原・西田・吉野園芸・紫原農芸・天保山・中洲・大龍・山下青年学校,私立青年甲南実践女学校,私立薩摩片倉・私立山形屋・私立吉見鉄工所青年学校,県立伊敷青年学校,谷山町立青年学校,谷山町立実践女学校,吉田村立青年学校,西桜島村立・東桜島村立青年学校,喜入村立青年学校の17校+私立4校計21校になります。その中の吉野園芸・紫原農芸・伊敷青年学校が,東高校の前身の学校になります。
     3校の内,最も生徒数が多いのは吉野園芸青年学校で 484名(男子 319名,女子 165名)です。ついで県立伊敷青年学校で 481名(男子 356名,女子 125名)です。紫原農芸青年学校は 393名(男子 187名,女子 206名)です。

     吉野園芸青年学校は,昭和6年に吉野村内3実業補習学校,3青年訓練所を廃して,吉野公民学校,高等公民学校を吉野尋常小学校に附設しました。昭和9年に鹿児島市に併合され市立化し,昭和10年に青年学校となりました。
     県立伊敷青年学校は,校長は県立青年学校教員養成所長と兼任していました。青年学校生徒は普段は就労・就農しながら,夜間に通学するという形です。「学校にして学校にあらざる学校」として,家庭生活指導を徹底するという方針でした。また昭和10年から専任教員の部落駐在制を実施し,職場訪問して現場指導を行うものでした。また教員養成所に附設している関係で,教育実習指導も行いました。

    青年学校教員養成所

    (写真)県立青年学校教員養成所(『躍進の青年学校』より)
     紫原農芸青年学校は,昭和10年に宇宿中等公民学校,同青年訓練所,県立実業補習学校,田上青年訓練所が廃止され,田上町に新設されました。その特質は部落男女青年団と学校との連絡提携のため,毎月1~3回部落常会に部落専任教員が出張し,部落別生徒異動表・生徒個人別出席状況表により不就学欠席の指導督促,世話係を任命し指導徹底を図る。蔵書の貸出,新聞切り抜きの奨励,講演・ラジオの聴取,教員の巡回指導等でした。なお田園都市の農業として,副食物を提供するため,蔬菜,温州ミカン,レモン,柿,雑柑の栽培。また就職を斡旋し,昨年度より職業指導科,商業科を設け,会社の事務員指導等を行いました。

    紫原農芸青年学校

    (写真)紫原農芸青年学校(『躍進の青年学校』より)

     以上のように青年学校は,就労・就農と勉学の両立,職業訓練等を担い,小学校卒業後の教育を担当していたことが分かります。このことが東高校の前身である農業系学校の基礎となっていきます。
     最後に東高校の創立記念誌から当時の様子を抜粋します。『創立40周年記念誌』p.85(以後40-p85と略す)の江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」によると,江口氏は昭和13年紫原農芸青年学校に赴任し,昭和27年紫原分校廃校まで勤務したそうです。紫原農芸青年学校は昭和10年4月に田上町広木に設立され,職員は教師7名,指導員3名他で,生徒数は本科男子1年から4年まで,各学年約50名,女子は各学年約30名だったそうです。約というのは,当時の生徒は仕事を持っていて,仕事の都合で通学する生徒が荒田の青年学校に変わったり,西田に変わったり,又他から転入したりして常に一定しなかったためです。男子は兵隊に行くまで在学し,午前は一般教科,午後は教練でした。空襲で学校は全焼し,その跡に仮校舎が建っていて,江口氏は復員後教員となったそうです。戦後の新学制で商業学校と一緒になり鹿児島市高等学校第三部となり,紫原・伊敷・吉野の青年学校をまとめ第四部となったそうです。

    紫原2

    (写真)江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(『創立40周年記念誌』p.85)より。戦後の農芸高校紫原分校の写真か? ほとんど男子で,女子は2人? 男女一緒に写っていますね。

  • 2022年02月28日(月)

    東高校の歴史 その1

    校舎

    校舎西側

     新シリーズです。東高校の歴史を振り返り,そのルーツを探りたいと思います。

     これから鹿児島東高校の歴史を見ていきたいと思います。東高校は平成30(2018)年に創立70周年を迎えました。昭和23(1948)年に新制高校が成立以来70年が経つということです。しかしその時はまだ「鹿児島東高校」ではありませんでした。校名等の幾多の変遷を経て,昭和44(1969)年に現在の校名となりました。
     東高校の歴史について考えることは,現在の東高校のルーツを探ることです。鹿児島の教育といえば,江戸時代の郷中教育があります。薩摩藩の青少年教育を指し,イギリス発祥のボーイスカウトの原型とも言われています。6~10歳までの小稚児を,11~15歳の長稚児が生活全般を教え,さらに15~25歳の二才と呼ばれる青年が指導するというものです。明治になってもその伝統は続き,西郷隆盛が征韓論で敗れて鹿児島に下野したあとは,私学校(現城山の鹿児島医療センター)が作られました。県内に 100校以上の分校がありました。また吉野には吉野開墾社が作られました。昼間は農作業をし,夜は勉学するというものです。西南戦争後は,それを継承する学舎が数多く作られ引き継がれました。
     戦前の教育は現在の小・中・高校・大学の単線型とは異なり,複線型と言われ,小学校卒業後は複数の選択肢がありとても複雑です。明治末段階で小学校はほぼ100%の就学率になりますが,その後は旧制中学校(現在の高校),高等女学校,実業学校(工業・商業・農業等),師範学校(教員養成学校)の選択肢がありますが,それらに進学するのは2割ほどとされています。残りの大多数は就職するか,家の農作業を担うことになります。明治後半から農家の子弟や就労者に対しても中等教育をとの動きが高まり,実業補習学校,青年訓練所(軍事教練)が設置され,昭和10(1935)年に両者が統合され,青年学校が誕生します。これが現在の大多数の高校の原型になっていきます。
     さて,東高校の沿革を見ると,その元は吉野・伊敷・紫原の各青年学校が統合されたものです。そのあと農芸高校・園芸高校と農業系の学校となります。昭和40(1965)に鹿児島農業高校が誕生します。しかしその4年後の昭和44年に鹿児島東高校となります。はじめは園芸科や農産化学科があり,その名残がありますが,昭和61(1986)年に園芸科が募集停止となり,国際教養科が新設されます。現在はその国際教養科も平成23(2011)年に募集停止となり,普通科のみの学校となっています。

    吉野伊敷紫原地図

     本校HPのトップメニュー「学校紹介」の「学校沿革」を見ると,昭和10(1935)年吉野,伊敷,紫原の各青年学校以降の歴史がありますので,それを見てください。上の地図にその場所や変遷を図示してみました。

  • 2022年02月26日(土)

    日本史おすすめ本 その27

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (27)

  • 2022年02月20日(日)

    日本史おすすめ本 その26

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (26)

  • 2022年02月12日(土)

    日本史おすすめ本 その25

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (25)

  • 2022年02月05日(土)

    日本史おすすめ本 その24

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (24)

  • 2022年01月29日(土)

    日本史おすすめ本 その23

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (23)

  • 2022年01月23日(日)

    日本史おすすめ本 その22

      今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。

    日本史おすすめ本 (22)

  • 2022年01月15日(土)

    校歌の研究 その41(完結) ~鹿児島玉龍中学校

    玉龍中1

    玉龍中2

    1.南の空晴れ渡り 黒潮のたゆたふところ 火の島の煙仰げば 鉄の意気は燃えたつ ああ潑剌の若き玉龍 2.蛟龍の玉をふみつつ 雨を呼び風をはらみ  舞ひのぼる雲を仰げば 天を衝く力みなぎる ああ躍進の若き玉龍 3.荊棘の試練に耐えて うちたてる文化のあした 旭日の光仰げば 青雲の希望はをどる ああ玲瓏の若き玉龍

     鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校は、昭和15(1940)年鹿児島市立中学校(旧制中学)として開校、25年に鹿児島県玉龍高等学校となり、32年鹿児島市立化しました。平成18(2006)年に鹿児島玉龍中学校が併設され、市内唯一の市立中高一貫校となりました。
     校名の由来は当校所在地にあった福昌寺の山号「玉龍山」によるものです。福昌寺は南北朝時代の伊集院に生まれた石屋真梁(せきおくしんりょう)という曹洞宗のお坊さんによって作られたお寺で、代々島津氏の菩提寺となり、現在も玉龍高校の裏手に福昌寺墓地という島津氏のお墓があります。石屋は他に伊集院の「妙円寺詣り」で有名な妙円寺や、しんこ団子発祥の深固院(日吉町)も作っています。
     校歌制定年は不明ですが、25~27年頃(玉龍高校創設後~作曲担当の杉山氏逝去)に作られたのではと思われます。市立中学校歌ではないので、本コラムの趣旨と合致しませんが、40番目の校歌として考えてみたいと思います。作詞は前田重行、作曲は杉山長谷夫です。
     ウィキペディアによると、作曲担当の杉山氏は、本名杉山直樹で、明治22(1889)年に愛知県名古屋市に生まれました。日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者です。大正2(1913)年東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケルらにヴァイオリンや作曲を師事しました。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永らと室内楽運動を展開し、暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えました。作曲家としては本領であるヴァイオリン曲のほか、軍歌、歌曲、歌謡曲、童謡も手がけ、抒情画家・蕗谷虹児の作詞による、花嫁になる女性の哀感を情緒的に表現した童謡『花嫁人形』は少女たちに広く愛唱されたそうです。歌謡曲では自ら見出した詩人・勝田香月の詩、オペラ歌手・藤原義江の歌唱によって別れの寂しさを表現した『出船』がヒットしました。多作であり、SPレコードの録音だけでも百数十曲の作品が確認できます。戦後は日本作曲家協会理事、日本音楽著作権協会理事などを歴任。酒を好み、貴公子然とした風格を持ち、軽妙洒脱でユーモアをたっぷり含んだ語り口と人柄で「殿下」の愛称で親しまれたそうです。当校校歌の他、早稲田大学応援歌、静岡県立富士高校や千葉市立小中台中学校などの校歌を担当されたようです。昭和27(1952)年に62歳で亡くなりました。
     玉龍高校同窓会HPによると、校歌は全国から公募したとあります。また前田氏は隼人中学校校歌も作詞しているようです。両校の歌詞を比べてその特徴を考えてみます。共通するワードは、黒潮、桜島(当校は火の島と表現します)、意気は燃え立つ、はつらつ(当校では潑剌と漢字表記)、力みなぎる、躍進、試練、文化、旭日、青雲、希望です。当校は高校校歌のため表現も漢語を多用し、難しいですが、内容的には生徒を主体にして「若さ」のイメージを大事にしているようです。
     さて歌詞について。高校校歌ということもあり、難しい表現が多く見られます。全体的には校名の龍にちなんだイメージや表現を使っているようです。特に2番の「蛟龍」は、水中にすむとされる中国古代の想像上の動物で、水中にすむ蛟龍は雲や雨を得ればそれに乗って天に昇り龍になるといわれることから、能力を発揮する機会の無かった英雄や豪傑が、機会を得て能力を発揮することのたとえとされるそうです。3番の「荊棘(けいきょく)」は荊、棘ともにいばらの意味で、困難や障害があることのたとえです。「玲瓏」は、玲も瓏も、どちらも「玉や金属、宝石などがお互い触れることで鳴る美しい音」を表す言葉であり、「玲瓏」でさらに意味を強め、玉や宝石などが美しく輝き、冴え冴えするような音を奏でる様子を指しているそうです。校名の龍の字が入っている熟語を採用し、かつ生徒の切磋琢磨するイメージを重ね合わせているのではと思います。

    玉龍中3

    玉龍中地図

     以上で,市内40中の公立中学校全ての校歌を考えることが出来ました。

     校歌は学校周辺の風景、学校の教育方針や理想を歌い、校風を醸成するために制定されたものです。校歌を通じてその学校における生活環境を考えることは、郷土理解、郷土愛を育むことにつながるのではと考え、鹿児島市内の公立中学40校の校歌について調べてみました。
     戦後スタートした新制中学は、番号を冠した9つの中学を皮切りに、市町村合併による市立化、特に70年代の第2次ベビーブームによる生徒数急増に伴う市の小中学校整備計画により、続々新設されました。
     この研究を通じて、学校周辺の地理的環境、戦後の県の国語・音楽教育界やそれをリードした人物、地域の歴史、何よりも学校創設当初の時代の雰囲気や気風を知ることが出来ました。
     また南日本新聞連載の「校歌の風景」やひろば欄に時折寄せられる校歌についての投稿を読むと、在校生や教職員、卒業生の母校への深い思いを改めて感じることが出来ました。

  • 2022年01月15日(土)

    校歌の研究 その40 ~伊敷台中学校

    伊敷台1

    伊敷台2

    1.昇る朝日のさやけきに 高くそびえし学び舎は 集う若人自主のもと 理想をかかげ明日拓く ああ進み行く伊敷台中学 2.空青々となお深く 水また清き甲突に 学ぶ若人友愛の 胸熱くして肩をくむ ああたくましき伊敷台中学 3.はるかに望む桜島 緑の大地希望わく いさむ若人ふるさとを 興すは我ら意気盛ん ああ我が母校伊敷台中学

     伊敷台中学校は、平成4(1992)年に坂元中・伊敷中学校から分離して、鹿児島市立伊敷台中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は職員一同、作曲は職員一同、久保禎(ただし)監修です。

    久保禎 ←久保禎氏です。
     ウィキペディアによると、久保氏は日本の現代音楽作曲家で、鹿児島国際大学国際文化学部教授だそうです。昭和37(1962)年鹿屋市生まれ。東京学芸大学卒業、同大学院修了。ベルギー王立ブリュッセル音楽院修士課程。作曲を仲俣申喜男、吉崎清富、ヤン・ヴァン・ランデゲムに師事。在学中吉崎清富らと作曲家グループ「パッケージ21」、ヲノサトルらと音楽確信犯会議を結成し、作品発表を行う。第1回日仏現代音楽作曲コンクール特別賞、東京国際ギター作品作曲コンクール入賞等受賞。その他国内外の多数の音楽祭に招待され出演されてきました。東アジア作曲家協会日本支部委員。日本作曲家協議会、日本現代音楽協会各会員。九州・沖縄作曲家協会理事等歴任されています。

     さて歌詞について。2番に甲突川、3番に桜島を詠み、1番自主、2番友愛、3番希望と定番のテーマを歌い込めます。
     1番にある「さやけき(明けき・清けき)に」は光が冴えて明るい、澄んで、清らか、すがすがしい等を意味する古語です。ここでは朝日が冴えて明るく清々しい様子でしょうか。続いて「高くそびえし学び舎」とあり、高台にある校舎を歌っています。3番では「はるかに望む桜島」に「緑の大地」と続けて、桜島を希望の象徴として捉え、郷土振興を歌い上げており、とても気持ちの良い歌に仕上げています。

    伊敷台地図

  • 2022年01月14日(金)

    校歌の研究 その39 ~皇徳寺中学校

    皇徳寺3

    皇徳寺1

    1.緑の風に 敬愛の ブルーベリーの 道静か 手を結び合い 若人の ああ 皇徳寺中学校 平和あふれて 友多し 2.歴史の里に いま自主の 泉湧き出る 永田川 体を鍛え 若人の ああ 皇徳寺中学校 文化あふれて 幸多し 3.瞳も燃えて 向学の 翔び立つ空に 桜島 未来を見つめ 若人の ああ 皇徳寺中学校 光あふれて 夢多し

     皇徳寺中学校は、平成2(1990)年に谷山北中学校から分離して、鹿児島市立皇徳寺中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は橋口義心、作曲は兼廣晨史です。
     兼廣氏については西陵中のところで紹介しました。橋口氏についてはよく分かりませんが、田代小(川辺)22代校長(1984-88)・平川小30代校長(1988-1990)をされています。縁あって作詞を担当されたのでしょうか。

     さて歌詞について。1番に「ブルーベリーの道」とあります。これは1980年代に皇徳寺台を建設していた南国地所によって数百本のブルーベリーが植樹されていたことにちなむもので、「ブルーベリーロード」と呼ばれる 2.5kmの歩行者専用道路のことだそうです。とても斬新で爽やかな歌詞です。

    ブルーベリーロード

     2番には永田川、3番には桜島と定番の景観を詠み込みます。2番に「歴史の里」とあるのは、地名の由来となった「皇徳寺」にちなむものと思われます。皇徳寺は元皇立寺といい、南北朝時代の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)が薩摩に来たときに作られたお寺で、親王が亡くなったあと、地元の谷山氏が現地に移して皇徳寺と改称したそうです。

    皇徳寺地図

  • 2022年01月12日(水)

    校歌の研究 その38 ~武岡中学校

    武岡1

    武岡2

    1.自然の恵み背にうけて 野元が原にそびえ立つ 木の香ただよう学舎に 真理をめざす若人の 自立の歩みたしかなる ああ我が武岡武岡中学校  2.緑の大地踏みしめて 手と手とりあう友垣の 足音高き校庭に よろこび誓う若人の 友愛の華うるわしく ああ我が武岡武岡中学校 3.紫紺の空の陽をあびて かがやく明日の夢を呼ぶ 歌声ひびく塔上に 望みを秘めた若人の 創造の鐘高らかに ああ我が武岡武岡中学校

     武岡中学校は、昭和63(1988)年に明和中学校から分離して、鹿児島市立武岡中学校として創設されました。鹿児島市の中学生数は62年にピークを迎え、 25118人となりました。そういう状況を反映して創設されたようです。校歌制定は同年の63年です。作詞は緒方正文、作曲は有馬俊次です。
     緒方氏についてはよく分かりません。有馬氏は県内中学校の音楽教員で、昭和34(1959)年から46年度まで、宮之城中学校吹奏楽部で指導され、吹奏楽部コンクールに毎年のように参加されたようです。また『コンピュータで楽しい音楽授業をつくる』(2000年)、『音楽教師とIT技術-実力UPの授業ポイント』(2002年)という著作があります。それによると、九州内の教員や音楽関係者が、学校の音楽教育にコンピューターや電子楽器を導入して、もっと楽しく効率的に学習活動ができないものかと試行錯誤していた際に、仲間を集めようと企画され、平成8(1996)年以来「ミュージック・テクノロジー教育セミナーin九州(略称「阿蘇セミナー」)」が開催されることになったそうです。有馬氏は退職後にこのような活動を始めたとのことです。
     さて歌詞について。1番に「野元が原」というローカルな地名がでてきますが、これは南北朝時代の古戦場跡ということです。1354年に、畠山直顕が島津氏の拠点東福寺城(現多賀山)を攻めるために、野元(武岡?武?)と原羅(原良)に布陣しました。島津軍は軍を2つに分け、畠山勢を攻めたとのことです。ここでは畠山軍の多田七郎と島津軍の山田弥九郎の一騎打ちが行われ、原羅合戦の一騎打ちと言われたそうです。歌詞では「野元が原にそびえ立つ木の香ただよう学舎に」とあり、新築したばかりの様子を歌っています。2番で「友愛の華」、3番で「創造の鐘」と校歌によく出てくるフレーズを歌っています。

    武岡中地図

  • 2022年01月10日(月)

    校歌の研究 その37 ~西陵中学校

    西陵1

    西陵2

    1.みどりの庭に陽が落ちて 東に映える桜島 友よ学ぼうこの丘で 自律のしらべ高らかに 真理の扉を開くのだ ああ西陵中学われら 2.理想の海へとこしえに 流れて清き田上川 友よ磨こうひとすじに 豊かな心むすびあい かがやく学園創るのだ ああ西陵中学われら 3.歴史の歩みうるわしく 文化のかおるふるさとで 友よ語ろうわが豊富 試練を超えてたくましく 世紀のあしたへ巣立つのだ ああ西陵中学われら

     西陵中学校は、昭和59(1984)年に武中学校から分離して、鹿児島市立西陵中学校として創設されました。校歌制定は翌年の60年です。作詞は内与詩守、作曲は兼廣晨史です。
     作詞担当の内氏について。詳しくは不明でが、県内市民歌等を担当していて、枕崎市民歌、大崎音頭、ふるさと鹿屋音頭、松元お茶音頭、与論町町民歌、鹿屋体育大学学生歌、刈谷市制30周年記念作品「みどりの風に」、その他どういう縁なのか、HOUND DOG の「銀河のささやき」や島倉千代子「おじいさんおばあさんありがとう」の作詞も担当されているようです。
     兼廣氏について。『鹿児島作曲協会創立30周年記念誌』によると、昭和46(1971)年に郡山脩、野崎哲、藤島昌壽(明和中校歌作曲)らと共に、作曲研究グループを結成し、48年に作曲研究会に改称会員20人で発足(代表理事郡山脩)。52年鹿児島作曲協会と改称し現在に至ります。51年郡山氏急逝のため、兼廣氏が引き継ぎ、57年に会長となったそうです。同協会はNPO法人でコンクール等の企画運営、作曲指導、音楽を通じての青少年の健全育成活動等を行うことを目的とする団体です。事業所は姶良市加治木町。兼廣氏は、県内小中校の校歌作曲も担当されています。皇徳寺中、立神中(枕崎市)、西陵小、西原台小(鹿屋市)、武岡音頭(武岡台校区)等です。

     さて歌詞について。1番で「桜島」を詠んでいます。「丘」とあるのは、当校HPに「標高100mの高台にありゆるやかな丘陵地帯」とあり、学校所在地のことを指しています。2番には田上川を詠み、3番には「歴史の歩みうるわしく文化のかおるふるさとで」と地域の歴史環境に触れています。具体的には出てきていませんが、近くに「西郷南州野屋敷の跡」があり、HPに「ここはその昔、西郷隆盛が、愛犬を連れて猟を楽しんだゆかりの地」とあるので、このことを指しているかと思います。ちなみに西陵なのに周辺の団地を、西郷団地と呼ぶのはこのためです。

    西陵中地図

     この図を見ると、中学校密集地域で、団地と中学校区の関係がよく分かります。西陵中校区は、田上川(下流域は新川)と脇田川に挟まれた高台の丘陵地域だと分かります。

  • 2022年01月09日(日)

    校歌の研究 その36 ~吉野東中学校

    吉野東3

    吉野東1

    1.はるかに青き錦江湾 清く明るく吉野東 希望に燃えて夢を呼ぶ 勉学励み頼もしく 未来に向きて競いあわん 2.歴史ゆかしくこの台地 出会いを求む吉野東 友愛あふれ咲きかおり 礼節なりて麗しく 未来に向きて輪をひろげん 3.朝日そびゆる桜島 ともに鍛える吉野東 英気に満ちたこの笑顔 勤労練磨  耐えぬきし 未来に向きて歩みゆかん

     吉野東中学校は、昭和58(1983)年に吉野中学校から分離して、鹿児島市立吉野東中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は佐藤文男、作曲は長野彰です。両者とも詳しく分かりません。

     

    ・吉野中校歌(S28制定、作詞・作曲:久保けんお)

    1.高原の吉野は青空にいちばん近い ぐんと背のびをすれば 青空に両手がとどく この美しい国で なごやかな心と心を結ぶ われらわれら吉野中学 2.三つのペンをかたどった われらの校章 光る三つのかなえは奥ふかい 学びの道を朝な夕なに示す あこがれの歌声たかき所 われらわれら吉野中学 3.桜島霧島開聞とひとめに のぞむすみきった空気の中で ひるまない強い体と 知恵と誠とをみがく 寺山に偉人の跡をしのぶ われらわれら吉野中学

    ・吉野小校歌(S30制定、作詞:蓑手重則、作曲:西 勇恕)

    1.ときわのみどり色はえて はるかに仰ぐ桜島 あヽこの窓にこの庭に 学ぶぼくらのわたしらの 知恵もかがやく吉野校 2.歴史はかおる寺山の 西郷さんをしのびつヽ あヽこの原にこの丘に みんな仲よく手をとって 歌もとどろく吉野校 3.平和な里のあさなゆう ゆたかににおう花紅葉 あヽこの地(つち)にこの空に 強く正しくたくましく 夢もはばたく吉野校

    ・吉野東小校歌(S56年以降制定、作詞:蓑手重則、作曲:武田恵喜秀)

    1.朝日の光さわやかに 学びの窓に今日もまた 明るい自主の鐘が鳴る 我らは我らは吉野東小 2.西郷さんの足あとを 朝な夕なにふみしめて 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおる 我らは我らは吉野東小 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 つばさも強くたくましく 我らは我らは吉野東小

     

     さて歌詞について。近隣の小中学校と比較してみてみたいと思います。すなわち吉野小・吉野中・吉野東小・当校の4校です。このうち吉野小と吉野東小はいずれも作詞は蓑手重則氏です。吉野中は以前紹介しました久保けんお氏です。桜島は4校とも歌います。錦江湾は吉野東小が3番で、当校が1番で歌います。他の2校にはありません。距離的にはそれほど大差ありませんが、区別をつけるためでしょうか。これらに共通し、他校に例が見られない点は吉野の西郷さんを歌い込んでいるところです。吉野中では「寺山に偉人の跡をしのぶ」、吉野小では「歴史はかおる寺山の西郷さんをしのびつつ」、吉野東小では「西郷さんの足あとを」、吉野東中では「歴史ゆかしくこの台地」です。

     ちなみに吉野小学校校長室には西郷さんが使用したとされる鉈や鎌が保管されています。明治6年征韓論争で敗れ鹿児島に下野した西郷さんは、吉野の寺山に吉野開墾社を作り、生徒らと昼は開墾、夜は勉学に励みました。その際使用した物が、現在保管されているとのことです。とてもゆかりがあります。

    吉野東中地図

  • 2022年01月08日(土)

    校歌の研究 その35 ~星峯中学校

    星峯中1

    星峯中

    星峯2

    1.輝くひざし この丘に 集うわれらよ 手を取りて 希望の明日を 開きゆく 自主友愛の 鐘ならし はつらつ 星峯中学校 2.山なみはるか 桜岳の 力とどろに 若人の 平和の明日を めざしつつ 正しく強く 生きてゆく たくまし 星峯中学校 3.はてなき空よ 南(みんなみ)へ 大いなる夢 はぐくみて ゆたかな明日を 築かんと 英智をみがき 学びつつ 伸びゆく 星峯中学校 

     星峯中学校は、昭和57(1982)年に鹿児島市立星峯中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は鮫島秀勇、作曲は津曲徹です。鮫島氏は詳しく分かりません。津曲氏については天保山中で触れました。
     さて歌詞について。1番に「この丘」とあり、学校所在地の星ヶ峯ニュータウンの丘陵地域を指していると思います。住所で言えば星ヶ峯1~5丁目に当たり、5・6丁目は星ヶ峯みなみ台ともいうようです。昭和48(1973)~平成4(1992)年に整備されました。当校が57年設立なので、ニュータウン造成に併せて造られたようです。また「自主友愛の鐘ならし」と一見校歌によく出てくるフレーズですが、鐘が鳴るのではなく、鐘を鳴らすと歌い、若干ニュアンスが異なります。より主体的能動的な表現です。
     2番では「桜岳(桜島の異称)の力とどろに」と歌い、詞藻豊かな表現であり、かつ音数を整えたのでしょうか(おうがく=4音、さくらじま=5音)。「とどろ(轟)に」とは、大きな音を立ててという意味なので、桜島の力強さを表現しているようです。
     3番の「はてなき空よ南(みんなみ)へ」の部分が少し意味が取りづらいようです。当校HPでは続く部分が「大いなる夢はくぐみて」となっていますが「はぐくみ(育み)て」が正しいと思います。各番とも最後に、校名で締めくくっています。

    星峯中地図

  • 2022年01月07日(金)

    校歌の研究 その34 ~桜丘中学校

    桜丘中2

    桜丘中1

    1.朝日に映える 山脈の 緑の風の わくろころ 心理をさぐる 若人に 明るい自主の 鐘は鳴る 桜丘中 ああ われら 2.大空あおく 海あおく ながめも清い この丘に 心とからだ きたえつつ 友愛花と 咲きかおる 桜丘中 ああ われら 3.錦江湾の 空高く はるかに仰ぐ 桜島 希望のつばさ はばたいて 輝く明日の 夢を呼ぶ 桜丘中 ああ われら

     桜丘中学校は、昭和55(1980)年に鹿児島市立桜丘中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。東谷山中同様、両者のペアで作詞作曲を担当しています。
     当校HPによると、本校区は、ほぼ桜ヶ丘団地だけの校区であり、一団地単独校となっているそうです。令和元(2019)年度には、創立40周年を迎えたことを一つの節目として、校歌にちなみ、「自主の鐘」を校訓に制定し、校訓を立行司第36代木村庄之助氏に書いていただいたとのことです。

    自主の鐘 ← 校訓「自主の鐘」
     さて歌詞について。今まで何度か紹介した通り、蓑手氏は県内最多の8中の校歌を担当しており、その共通する特徴が見られます。すなわち1番「自主の鐘は鳴る」、2番「友愛花と咲きかおる」、3番「希望のつばさはばたいて」です。明和中の所で触れた通り、学校教育に関わる氏の教育理念が込められていると思います。1番では西側に位置する山々に、朝日が映えると歌い、2番では学校所在地の「桜丘」を歌い、3番では錦江湾の向こうに桜島を仰ぎ見るという構図を歌い込んでいます。

    桜丘中地図

  • 2022年01月07日(金)

    校歌の研究 その33 ~東谷山中学校

    東谷山中

    東谷山2

    1.朝日の光さわやかに学びの窓に輝いて 真理を目指す若人に 明るい自主の鐘は鳴るわれらは東谷山中 2.青雲なびく魚見台銀杏の並木仰ぎつつ 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおるわれらは東谷山中 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 希望の翼はばたいて豊かな明日の夢をよぶ われらは東谷山中

     東谷山中学校は、昭和55(1980)年に谷山中から分離して、鹿児島市立東谷山中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。
     作詞担当の蓑手氏はほぼ同時期に4校の校歌作詞をしています。すなわち明和中(51年設立)、坂元中(52年設立、54年制定)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。また作曲担当の鎌田氏も西紫原中(54年設立)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。東谷山中と桜丘中はペアでの制作です。初回で触れたように、鹿児島市は、51年度「鹿児島市小中学校整備計画」を定め、中学校創設ラッシュとなりました。そのため同時期に校歌を制作することとなり、同じタイミングでの校歌依頼となったようです。
     さて歌詞について。今まで紹介してきたように、蓑手氏の共通の特徴を踏まえています。1番に「自主の鐘は鳴る」、2番に「友愛花と咲きかおる」、3番に「希望の翼はばたいて」とあります。2番の「魚見台」について。当校HPによると、学校所在地が、錦江湾で沿岸漁業が盛んな頃に、魚群を見張る最適な場所であったことから「魚見ヶ原」の地名がついたとされ、「魚見ヶ原の丘」と呼ばれているようです。そこで校歌では「魚見台」と表現されたようです。

    東谷山中地図

  • 2022年01月06日(木)

    校歌の研究 その32 ~西紫原中学校

    西紫原中2

    西紫1

    1.るり晴天の 大空に 光りて昇る 朝の日の 輝く知識 求む子の ああ わが母校 西紫原中学校 2.錦江湾の とどろきて 絶ゆることなく 打つ波の 生きぬく力 つくる子の ああ わが母校 西紫原中学校 3.火を噴く山の 桜島 天の柱と 立つ煙 理想を高く かかぐ子の ああ わが母校 西紫原中学校

     当校HPによると、西紫原中学校は、昭和54(1979)年に紫原中学校を母体にして、南中学校の一部を吸収して、鹿児島市立西紫原中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は椋鳩十、作曲は鎌田範政です。椋鳩十氏は前回触れました。

    鎌田2 ←作曲:鎌田範政氏

     鎌田氏は、昭和22(1937)年に鹿児島市で生まれ、鹿児島大学卒業後、県内の小・中・高校教諭を経て鹿児島大学教育学部に着任され、のち同大教授を務められました。県音楽教育連盟会長、日本教育音楽協会鹿児島支部長、県少年少女合唱連盟理事長などを歴任され、30年間にわたって鹿児島市立少年合唱隊の指揮者を務めたほか、南日本音楽コンクールや南日本ジュニアピアノコンクールの審査員長も務められました。平成20(2008)年度地域文化功労者文部科学大臣表彰、11年度県民表彰されました。平成26(2014)年死去されました。77歳でした。   
     さて歌詞についてですが、前回の紫原中の回でも紹介しましたが、椋鳩十氏は綿密に取材ノート(椋鳩十文学記念館所蔵)を残しています。特に当校については8枚もあります。

     2枚目に学校像(1創造、2健康、男子(?)、明朗、3協力)、生徒(真理創造、心身鍛練、相互敬愛)とあります。椋氏が当校を訪問した際に、学校側から聞いた学校像と生徒の教育方針ではないかと思います。

     2枚目を除く、1~8枚目は校歌の歌詞の推敲の過程を示しており、後半になるに従い完成原稿です。8枚目(下掲)は「西紫(原)中学校々歌」と表題が付いており最終案です。

    8

     1枚目には「るり晴天の大空に」とあり、現校歌の1番1節目の歌詞が早くも現れ、最初の着想を活かした格好です。錦江湾、桜島を使う構想も最初からあったことが分かります。瑠璃色は紫味がかった青色で、空の形容に使われるので、校名と大空に掛けて、椋氏のイメージにぴったりだったのだと思います。

     1番2節も「輝く朝の日の光り」「朝日大きくのぼりたり」と現校歌とほぼ同様で、7枚目に現校歌と同じ歌詞が完成します。1番については最初から構想がほぼできていたようです。

     1番3節の「輝く知識もとむ子の」は、2番にあった「知識」が1番に移り、6枚目で完成します。

     1~3番4、5節の校名での締めくくりの部分は、語順で悩み、7枚目に現行の形に落ち着きました。

     2番は初めは錦江湾の海底を詠もうとしますが、6枚目からは波に変わり、8枚目に2番1節「錦江湾のとどろきて」、7枚目に2番2節「絶ゆることなく打つ波の」で完成します。

     2番3節「生きぬく力つくる子の」は3番から移り、6枚目に完成します。

     3番1節の「火を噴く山の桜島」のフレーズは4枚目で完成し、途中「火をはく」と迷いますが、紫原中と同文を避けるためか、元に戻します。

     2節の「天の柱と立つ煙」は6枚目に完成しますが、天の柱がどういう意味かが謎です。日本神話の天御柱(あめのみはしら)か、自然現象のサンピラー(太陽柱)、光茫、日足などかと思いますが、ここでは素直に桜島の噴火の様を表現していると解釈した方が良さそうです。椋氏ならではの独自表現かと思います。

     3節「理想も高くかがく子の」は1番から「理想」を移して6枚目で完成です。4・5枚目で悩み、6・7枚目でほぼ完成させたようです。5枚目には、何回も推敲した跡が見られます。

    西紫原中地図

     

  • 2022年01月06日(木)

    校歌の研究 その31 ~坂元中学校

    坂元中1

    坂元中2

    1.歴史にかおる矢上城 学びの窓に眉あげて 真理をさぐる若人に 向学自主の鐘は鳴る 2.高原広く澄むところ 緑の風もさわやかに 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きにおう 3.仰げばはるか青雲に 火をはく山よ 桜島 希望も強くたくましく はばたく坂元中学校

     当校HPによると、坂元中学校は、昭和54(1979)年に創設されました。学校創設と同年に校歌が制定されました。作詞は蓑手重則、作曲は武田恵喜秀です。両者については、それぞれ城西中、清水中で触れました。
     当校所在地は特異な歴史的環境があり、当校HPに以下のような記述があります。
    1坂元の地名
     催馬楽(せばる)の旧村社日枝神社は近江の国の日枝神社の分霊を奉祀し、彼の地名に習い村を「坂元」と呼ぶと伝えられている。
    2催馬楽城(矢上城ともいう)
     文永4年~興国5年(77年間)南朝の忠臣矢上高純の居城で南北朝のころ、矢上左右衛門高純が終始一貫南朝に勤王し、猛烈に島津氏と戦って玉砕した戦場でその城跡が本校の前にある。
    3催馬楽碑
     奈良時代から朝廷の催馬楽(さいばら)という音楽を奏した隼人が住んだところと伝えられている。
     鹿児島郡司矢上氏の歴史と坂元の由来、催馬楽について、本校HP「学校周辺の史跡」で触れましたが、少なくとも 100年ほど当地を支配した矢上氏の歴史や伝統が根付いていることは確かだと思います。そのため当校や坂元小、坂元台小の校歌に、矢上氏(城)について詠み込まれています。特に坂元小校歌は作詞が同じ蓑手氏で、当校の4年前の昭和50(1975)年制定で内容もよく似ています。

     

     坂元小学校校歌(作詞:蓑手重則 作曲:郡山 脩)

    1.矢上の城のあとどころ 朝日に映える学び舎に きょうも明るい眉あげて 豊かな知恵の実をひろう 坂元われらまことの子 2.山なみ遠くめぐらせて 緑の風のわくところ みんな仲よく肩組んで やさしい愛の輪をむすぶ 坂元われらめぐみの子 3.錦江湾の空たかく 火をはく島よ桜島 つばさ大きくはばたいて かがやくあすの夢をよぶ 坂元われらのぞみの子

     

     さて歌詞について。1番に「歴史にかおる矢上城」とあり、地域の歴史を踏まえ、後半「自主の鐘は鳴る」と蓑手氏おなじみのフレーズで結んでおり、2番には「友愛花と咲きにおう」、3番には「希望も~はばたく」と共通のワードが使われています。2番の「高原」は学校周辺一帯の高台のことを指すのでしょうか。3番では火をはく山桜島を歌い込んでいます。

    坂元中地図

  • 2022年01月05日(水)

    校歌の研究 その30 ~明和中学校

    明和中1

    明和中2

    明和中3

    1.朝日に映える桜島 学びの窓に仰ぎつつ 真理をめざす今日もまた 生命に深くこだまして 明和よ自主の鐘は鳴る 2.山脈あおく 海あおく 南風ひかる丘の上 心を磨き 身を鍛え 生命も清く触れあって 明和よ愛の花かおる 3.錦江湾の空はるか 白雲絶えず湧くところ 希望のつばさたくましく 生命のかぎりはばたいて 明和よ明日の夢を呼ぶ

     当校HPによると、明和中学校は、昭和51(1976)年に、城西中学校から分離して創設されました。61(1986)年には武岡中学校が分離します。分離直前は総生徒数2000名以上と、日本でも最大規模だったそうです。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は藤島昌壽(まさひさ)です。蓑手氏については、城西中学校の所で触れました。

    藤島昌壽 ← 作曲担当の藤島昌壽氏です。

     藤島氏について詳しくは分かりませんが、昭和10(1935)年に生まれ、令和2(2020)年に亡くなりました。鹿児島出身の作曲家です。鹿児島女子高では多くの合唱曲を作られたそうです。平成22(2010)年には日置市市民歌を作曲されています。 『我が人生に悔いはなかりき-蓑手重則・瑛子追悼文集-』「校歌に寄せて-校歌集」によると、当校の校歌作成の事情が分かります。蓑手氏は鹿大で国文学を講じ、小中高校の国語教育を指導していた関係で、各所から依頼され校歌を制作されたとのことです。当校についても当時の南郷校長の委嘱によるとのことです。校歌で「生命」という言葉を反復強調しているのは、「小学生の頃から両親の手伝いをしながらいろいろな作物や家畜を育てて、その生命の神秘さや尊厳さを痛切に体験していたから」ということです。校歌には1番「生命に深くこだまして」、2番「生命も清く触れあって」、3番「生命のかぎりはばたいて」とあります。また1番「自主」、2番「協力」、3番「希望」を主題としており、「これらの精神は生徒ひとりひとりの具体的な生命とこだましふれあい高まらなければ正しくは生かされません」とのことです。
     1番の「自主」について。学校教育は生徒ひとりひとりの能力や性格に即して自主的な協力的な解決的な学習活動を展開して、生徒の主体的な学習態度を育成するところであり、そうでなければ生命と深くこだまする人間を育成することはできないでしょう。
     2番の「協力」について。人間は本来家庭や社会を構成して、相互に仲よく話し合い助け合って生きていかなければならない。氏は昭和26(1951)年鹿大代用附属の伊敷中学校主事として、研究主題「自発学習」をかかげ、男女仲よく話し合い助け合う生活態度を育成するなど3点を示しました。そこで男女同数の自然グループを編成し、学習活動を行わせたそうです。2番に「生命も清く触れあって明和よ愛の花かおる」とあるように、男女生徒が仲よく触れあうことで、学校教育の民主化が浸透していくと考えていたようです。本稿はここで終わっており未完のようです。
     さて改めて歌詞について見てみます。今まで触れたように蓑手氏は県内最多8中の校歌を作詞しています。その共通するところは、自主の鐘、友愛の花、希望の翼です。桜島と錦江湾の定番の景観も詠み込んでいます。

    明和地図

  • 2022年01月05日(水)

    校歌の研究 その29 ~緑丘中学校

    緑丘中1

    緑丘中2

    1.けむりを空に噴き上げて いのちを燃やす桜島 ああその雄姿のぞみつつ 自ら学び励むもの 中学われらに力あり 2.緑丘のあけくれに 友愛花と咲くところ ああはつらつの眉上げて 真理の道を進むもの 中学われらに誇りあり 3.したたる汗に健康の よろこび歌う若い声 ああその意気にこぞりつつ かがやく明日をめざすもの 中学われらに使命あり

     当校HPによると、緑丘中学校は、昭和49(1974)年に創設されました。校歌は2年後の51(1976)年に制定されました。作詞は高城俊男、作曲は吉崎清富です。高城氏については、長田中学校の所で触れました。
     吉崎氏は、ウィキペディアによると、日本の現代音楽作家です。昭和15(1940)年秋田県大館市生まれ。中学卒業と同時に上京し、桜美林高校、東京芸術大学、同大学院を修了しました。作曲を下総皖一、石桁眞禮生に師事し、ベルリン国立音楽大学に留学し、国際コンクールで入賞を果たします。同大卒業後ベルリン工科大学電子音楽スタジオ研究員に着任。鹿児島大学講師着任後、東京学芸大学教授、国立音楽大学講師、鹿児島大学教授を歴任し、令和3(2021)年瑞宝中綬章を受章されました。三枝、西村、松平、水野氏らと結成した「オーケストラ・プロジェクト」、自らが主宰する作曲グループ「パッケージ21」等において、ユニークで鮮烈な作品を多数発表し、NHK電子音楽スタジオ等からの委嘱による電子音響作品やコンピュータ音楽作品も手掛け、実験精神に溢れながらも正統な現代作曲技法に裏打ちされた作風は、極めて独創的な音楽世界を確立したものとして高く評価されているそうです。
     さて歌詞について。作詞担当の高城氏は県内5中、長田中・河頭中・桜島中・和田中・当校の作詞をしています。共通する特徴としては、1番に桜島、2番に錦江湾を歌い、最後に校名でしめくくるというパターンが多いようです。ただ錦江湾より離れている河頭中は甲突川を歌い、当校は緑丘を歌っています。また古語を好んで使う傾向もあります。当校では2番に「あけくれに~真理の道を進む」とあり、朝夕問わず、真理探究に励んでいくという意味合いでしょうか。同じく2番の「友愛花と咲くところ」もよく出てくる表現です。3番では「かがやく明日をめざす」と郷土建設を歌います。

    緑丘中地図

    団地地図

     緑丘中は、第2次ベビーブーム(1970年代初頭)、伊敷団地造成(1966から1971年)による人口急増の受け皿として、創設されたものと思われます。

  • 2022年01月04日(火)

    校歌の研究 その28 ~紫原中学校

    紫原中2

    紫原中1

    1.高原すでに明けそめて み空に光るあけの星 自主創造は人と世に 夜明けを呼ぶと語りかく 夜明けを呼ぶ紫原中 2.のぼる朝日の光りの矢 黄金に染めて薩摩潟 深き知徳は人と世に 光りを呼ぶと語りかく 光りを呼ぶ紫原中 3.中天高くま向いに 火をはく山の桜島 高き理想は人と世に 未来を呼ぶと語りかく 未来を呼ぶ紫原中

     当校HPによると、紫原中学校は、昭和42(1967)年に鴨池中学校から分離独立し、鹿児島市立紫原中学校として創設されました。校歌は51(1976)年に制定されました。作詞は椋鳩十、作曲は武田恵喜秀です。椋鳩十氏は言わずと知れた日本を代表する児童文学作家です。武田氏は清水中学校の所でも紹介しました。『武田恵喜秀の88年 ピアノを愛して』によると、「(武田氏は)校歌作りの名人でもあった。作詞は作家の椋鳩十、詩人の副田凱馬、蓑手重則らとコンビを組んだ。武田が作曲した校歌は実に 191曲。県内の学校のおよそ2割にもおよぶ数になる」とあり、「とくに椋は学校からの作詞の依頼がくると「作曲は武田先生だよ」という条件で受けたらしい」とあって、両者の関係の親密さが分かります。

    椋 ← 作詞担当の椋鳩十氏です。

     作詞担当の椋鳩十について、椋鳩十文学記念館編『椋鳩十の生涯』『椋鳩十の略歴』で見てみたいと思います。
     椋鳩十(むくはとじゅう)は、明治38(1905)年長野県で誕生。本名は久保田彦穂(くぼたひこほ)。日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。日本における動物文学の代表的人物です。地元の旧制中学を経て、大正13(1924)年法政大学文学部国文科卒業後、昭和5(1930)年鹿児島の中種子高等小学校に代用教員として赴任しますが、夏にふんどし1つで授業をしたため3ヶ月で解雇となり、姉清志(県立病院第1号女医・眼科)の紹介により、同県加治木高等女学校(現在の加治木高校)の国語教師に着任しました。仕事の傍ら作家活動を続け、8年に最初の小説『山窩調』を自費出版し、この時初めて椋鳩十のペンネームを使いました。
     戦後昭和22(1947)年から41年までの19年間、鹿児島県立図書館長を務めました。館長として、GHQによる軍国主義的図書館資料の排除命令を、書庫に封印する事を条件に回避しましたが、財政難によって図書館再建は困難を伴いました。そこで、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、図書館学で「鹿児島方式」と呼ばれる、県立図書館と市町村図書館との一体的システム化を行い、のちの図書館ネットワークの原型となるものを構築しました。また、創作と並行して1958年に奄美分館設置、1960年に読書運動である『母と子の20分間読書』運動を推進し、1967年から1978年までは鹿児島女子短期大学教授を務めました。なお、鹿児島県内の小中学校・高校の校歌に詩を提供しています。昭和62(1987)年12月に肺炎のため逝去、享年82歳でした。
     上谷順三郎「椋鳩十作詞の校歌についての研究」によると、県内には椋作詞の校歌は57校あり、その内収集できた48校の歌詞分析を行ったそうです。道徳的内容(清い、明るい、理想、希望、美しい、校訓)。名詞(肩(組む)、光、心、知識)。動詞(学ぶ、輝く、集う、育つ、伸びる、励む、若い等)。色(金、紅、瑠璃等)。その他(われ、われら等子どもの表現、若き芽、若人、「○○の子」、校名を歌うのも多い)。自然(空、山、川、朝、虹、星)。生物(花、芽、珊瑚樹、そてつ、アフチ)である。椋は依頼された学校を何回も訪れ取材したと言われ、そのため地域の自然が豊かに描かれているそうです。その際の取材ノートが何十冊も残されています。年代別では、昭和20年代(7校)、30年代(25校)、40年代(5校)、50年代(1校)、60年代(3校)、不明10校だそうです。校歌の作詞は県立図書館長就任後の22年以降になされ、新聞連載や南日本文化賞受賞(30年)等地元鹿児島での活動の活発化とともに作詞依頼が増えたようです。作詞依頼の理由としては、県立図書館長だったから、地元にゆかりのある作家だったからだそうです。椋氏の教育観から、常に子どもとの関わりがあり、子ども達への願いを校歌に込めたのではないかとされます。
     さて当校の歌詞について。1番に高原(紫原台地か)、2番に薩摩潟(錦江湾)、3番に桜島の定番を配置します。歌詞の構造としては、1番であけの星が夜明けを呼ぶ、2番で深き知徳が光(朝日)を呼ぶ、3番で高き理想が未来を呼ぶと歌います。ここであけの星(明けの明星=金星)が、夜明けを呼ぶというモチーフが、県内で5校ほど確認できます。椋作詞の東高校校歌では少しニュアンスが違いますが、「星満天に輝きて東天ひそかに朝を呼ぶ」とあります。このメルヘンチックで、童話的な表現が椋鳩十作詞の真骨頂だと思いますがどうでしょうか。

    紫原中地図

  • 2022年01月04日(火)

    校歌の研究 その27 ~南中学校

    南中3

    南中1

    南中2

    1.南に開く錦江の 潮の香かようわが学園(その)に 風は緑にかぎりなき 真理の道を究めんと 集う瞳の色澄めり 2.紫原に雲高く 日は輝けりわが校庭(にわ)に 闘魂いよよ火と燃えて 心も身をも鍛えんと 競う力の花薫る 3.桜島山(しまやま)こめて夕ばえの 紅つつむ学び舎に 自主協調の誠もて 日本のあすを築かんと 結ぶ理想の夢豊か

     当校HPによると、南中学校は、昭和34(1959)年に鴨池中学校から分離独立し、鹿児島市立南中学校として創設されました。そのため校章は鴨の形をかたどっているそうです。42(1967)年に校歌が制定されました。作詞は富永栄蔵、作曲は隈元清之助です。両者ともよく分かりません。当時の国語・音楽教諭だったかもしれません。
     さて歌詞について。1番に「錦江」、3番に「桜島山」と定番の景観を配置します。ただ桜島山を「しまやま」と歌うのは珍しいです。2番には「紫原」を歌います。これは当校の北西側に位置する標高70mほどの「紫原台地」を指しています。紫原は「むらさきばる」と読み、鹿児島で「~はる」地名は開墾地で、台地の場合が多いです。一説には北の田上村、東の郡元村、南西の宇宿村の村境に位置していることに由来しているといいます。また紫色の染料である紫草が群生していたためとも言われます。中世頃よりしばしば戦場となり、明治の西南戦争でも激戦地となりました。戦後昭和31(1956)年に紫原団地の造成が始まり、鹿児島市内の団地造成の先駆けとなり、41年にほぼ完成しました。周辺地域の人口急増に伴い当校他中学校の設立につながったと思われます。3番では「日本の明日を築かんと」と歌われ、高度経済成長を象徴する歌詞となっています。

    南中地図

     

     

  • 2021年12月28日(火)

    校歌の研究 その26 ~鹿大附属中学校

    附中1

    附中2

    1.るり色の 風に明けゆく南国の 希望の空よ 見よ見よ集えるは 清新の生命燃え立つ若き花 意気あり鹿大付属中 2.緑樹の 蔭にさゆらぎ薫りたつ 歴史の槌よ 見よ見よあふるるは 友愛の宴楽しむ若き夢 自治あり鹿大付属中  3.火の山の 姿そびゆる青空に えがくは何ぞ 見よ見よはばたくは 蛍雪の理想追いゆく若き鷹 栄あり鹿大付属中 

     鹿児島大学附属中学校は、昭和22(1947)年に、鹿児島師範学校男子部附属中、同女子部附属中、鹿児島青年師範学校附属中の3校が創設された。23年に男女が統合され、24年に新制鹿児島大学の発足により改称され、26年に同大学教育学部附属中学校となりました。30年に校歌が制定されました。作詞は脇太一、作曲は柳沢浩です。
     作詞担当の脇氏は、ウィキペディアによると、明治33(1900)年香川県に生まれ、昭和44(1969)年死去された、日本の教育者および作詞家です。大正13(1924)年に東京高等師範学校を卒業され、28歳の時に恩師に誘われて大連(中国遼東半島南部)に渡りました。教鞭のかたわら俳句、短歌、詩、小説、脚本などの作品を創作されました。敗戦後日本に引き揚げ、昭和22(1947)年坂出市立林田中学校校長に就任されました。26年NHK「ラジオ体操の歌」に応募、1万点余りの作品から最優秀に選ばれ(本曲は2代目の「ラジオ体操の歌」となる。現行版とは異なる)、作詞家として一躍有名になり、全国の小学校、中学校、高等学校から作詞を依頼されたとのことです。
     さて歌詞について。令和2年10月7日付南日本新聞「校歌の風景」25に、当校校歌の紹介があり、「校歌の詞と曲は1955年、県内では珍しく、全国から公募された。歌詞は2代目ラジオ体操の歌を作った香川県の脇太一氏が担当、多くの合唱曲を残した神奈川の柳沢浩氏が作曲した。県外の2人が手掛けた校歌には、学校周辺の情景などがほとんど登場しない代わりに、「花」「夢」「鷹」など時が流れても色あせない言葉が並ぶ。教員OBの一人は、地理的、歴史的な束縛を解かれた斬新な歌詞と語る」とあります。また当校の運動会の種目に「若き花」(女子ムカデ競争)、「若き鷹」(男子棒倒し)という校歌の1番と3番に使われた歌詞を冠する種目があるそうです。しかし今年(2020年)は新型コロナで中止となりましたが、新たに玉入れを考案し、2番にちなみ「若き夢」としたそうです。校歌の伝統を大事にする校風がうかがえます。

     氏の作詞された校歌のうち、出身の香川県以外の中学校の校歌と併せて考えてみると、共通するのは、歌詞の最後に校名を繰り返す、「見よ見よ」「若き」「栄え」「希望」「理想」などです。

     また脇氏が校歌作詞を担当された、県内の霧島市立向花小学校について、同校HPを見ると、公募から制定、発表にいたる経緯が分かります。昭和31年9~12月に全国に校歌の募集をし、12月15日に選定、翌年2月12日に学芸会で校歌の発表会を行ったそうです。その際作曲担当の鹿大教育学部武田恵喜秀氏も来校されたようです。応募された歌詞原稿が校長室に展示されており、それを見ると、選定委員による歌詞の修正の跡が分かり、「一等」という鉛筆の走り書きが、校歌が誕生した瞬間のようで、生々しささえ感じるということです。

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    向花小の校長室に展示されている,歌詞原稿です。

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     歌詞は、全体的にはとても詩的で味わい深く、半面深淵で意味が取りづらい所もあるかと思います。各歌詞の構造は、「~よ」(と呼びかけ)、「見よ見よ」(さあ、見なさい!)(これは)~「若き花、~夢、~翼」(それぞれ生徒を示し、1年・2年・3年生だそうです)だと歌い、最後に「鹿大附属中」と結ぶ。1番では「るり色の~空よ」「見よ見よ」「集えるは」「若き花」だ。気概ある、鹿大附属中だ。2番では「緑樹の~歴史の槌よ(ここの解釈は難しいが、今作られる当校の歴史や伝統を指すか)」「見よ見よ」「あふるるは」「若き夢」だ。自治の気風ある、鹿大附属中だ。3番では「火の山(桜島)の~何ぞ」「見よ見よ」「はばたくは」「若き鷹」だ。栄えあれ、鹿大附属中だ。唯一鹿児島のシンボル桜島(あえて火の山と歌う)を歌う所がとてもいい効果をもたらしていると思います。

    附中地図

  • 2021年12月25日(土)

    校歌の研究 その25 ~喜入中学校

    喜入中1

    喜入中2

     旧校歌 作詞:久保田彦穂(椋鳩十)  作曲:迫田武資

    1.秋はうるわし校庭の 南京はぜの夢の色 心にそめて学ぶ子は 理想大きく育ち行く 2.清き流れの八幡川 夕日淡く影うつす 知徳の泉汲む子らは 未来の花と育ち行く 3.愛の林の待人山 額の汗を払う風 勤労めでて学ぶ子は 郷土の力と育ち行く

     

     新校歌 作詞:大保純義  作曲:新徳美知二

    1.潮の香薫る錦江湾 学びの庭に 友愛の 誓いも新たに 集うとき 自律の鐘は 鳴り渡る 自律の鐘は 鳴り渡る ああ われら 喜入中 2.流れ豊けき 八幡川  清き川面に 真実の 道を尋ねて 励むとき 研学の炎は 燃えさかる 研学の炎は 燃えさかる  ああ われら 喜入中 3.紫雲たなびく 桜島 映ゆる雄姿に 高遠な 理想をかかげ 歩むとき 文化の園は 輝きぬ 文化の園は 輝きぬ ああ われら 喜入中

     『喜入町郷土誌』によると、喜入中学校は、喜入村立喜入中学校として、旧喜入青年学校跡地に、昭和22(1947)年創設されました。喜入小・喜入青年学校を利用して校舎としました。31年には町制施行により喜入町立喜入中学校となり、47年に町内3中(喜入・瀬々串・生見)が統合し、平成16(2004)年に鹿児島市立となりました。ここまで、「昭和22年組」~学校教育法施行に伴い昭和22年(甲南・天保山は23年)に誕生した、新制中学校24校を紹介してきました。市内40中の6割がこの年に誕生しました。
     当校は町立化した後、33年に旧校歌(作詞久保田彦穂(椋鳩十)、作曲迫田武資)が制定され、3中統合後の新喜入中学校成立後、49年に現校歌が制定されました。作詞は大保純義、作曲は新徳美知二です。作詞・作曲担当の大保氏・新徳氏についてはよく分かりません。当校の国語・音楽教諭だったかもしれません。旧校歌の椋鳩十は、東高校校歌の作詞も担当されている、児童文学者として著名な方です。また作曲担当の迫田氏は黒髪中のところで触れましたが、県内の多数の校歌を作曲されています。旧喜入中、根占中、宮小、伊敷小、徳光小、住吉小、三島小、羽月小、南永小、伊作小、漆小、荒川小、中名小ほか鹿屋市民歌や十島のうた等です。
     さて歌詞について。まず旧校歌は1番に「校庭の南京はぜ」とあり、椋鳩十はその景色を見たのだろうと思います。2番では「愛の林の待人山」とあり、『喜入町郷土誌』にある「待集(まっと)山」のことであれば、当校より南西に位置する、喜入CCの東側にある山のことと思われます。しかしなぜ「愛の林」なのか不明です。何か言い伝えがあるのでしょうか。3番では八幡川が出てきます。新校歌では、1番に錦江湾、2番に八幡川、3番に桜島が出てきます。このうち八幡川は喜入第一の河川で、中心部を流れます。ただ、日本遺産に指定された、給黎(きいれ)城跡を含む「喜入旧麓(もとふもと)地区」等歴史的景観を読み込まないのは少しもったいない感じがします。ちなみに喜入は初め旧麓地区が中心でしたが,江戸初期に現喜入小(地頭仮屋跡)辺りに、麓(郷の中心地)を移しています。喜入小の裏山が城山(戦時に籠もる所)で、地元では琵琶山(地図中緑で囲んでいる所)と呼ばれており、現在喜入総合体育館があります。南北を八幡川と愛宕川の2河川でカバーされており、防衛上適地とされたためでしょうか。あるいは海に近く、交通上・交易上有利とされたためでしょうか。旧麓地区は武家屋敷跡が残り、旧観を残しており、風情があります。2番の「自律の鐘は鳴り渡る」は校歌によく見られるワードで、3番の「文化の園」は独特な表現と思います。

     なお、当校出身の人の話では、朝の登校時間に、校歌の1番が流れ、「自律の鐘は鳴り渡る」を聞くと、ああもう遅刻だと観念したそうです。

    喜入地図