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  • 2021年08月29日(日)

    学校周辺の史跡 その8 ~関吉の疎水溝

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    疎水溝地図

     本校の最も一番近くにある「世界遺産」は、「明治日本の産業革命遺産」の構成遺産の中の「関吉の疎水溝」 です。疎水溝は関吉の取水口から実方を通り、大明丘、雀ヶ宮、落し、磯の仙厳園のところまで続きます。  

     稲荷川の上流、関吉から磯までの約7kmおよぶ用水路である。元は島津家21代吉貴が隠居した頃に造られたとされる。28代斉彬は集成館事業のためにこの用水の流路を一部変更し、動力源として利用した。今でも実方橋の手前まで農業用水として利用されている。平成27(2015)年に世界遺産「明治日本の産業革命遺産」として登録された。稲荷川上流で水をせき止め、取水した水を約7kmにわたって運ぶ疎水溝を、高低差の少ない吉野台地上につくるには、水路を一定の傾斜で築く必要があり、きわめて高い技術が要求された。こうした困難を克服して疎水を引き、疎水の端部にあたる磯の裏山に貯水池を設けて水路・懸樋(かけひ)で落とされて、運ばれてきたた水が工場群の動力や用水に利用された。疎水溝は、昭和46(1971)年頃の大明丘団地造成によって埋められ、現在は実方橋の手前で途絶え、約3kmが現存するのみである。

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     平成30(2018)年10月18日(日) 大明丘地域コミュニティ協議会の方から依頼を受け,ウォーキング大会で,本校生徒が,関吉の疎水溝のガイドを行いました。スタート地点の大明丘小学校で、はじめに開会式と疎水溝のガイドを行いました。

     疎水溝の取水口から、磯までの水路を、地図を貼り合わせて作成し、たたみ3枚ほどにまとめました。大明丘小学校の子どもたちもたくさん参加していましたので、クイズ形式で行いました。

    181018疎水溝ガイド

     上の写真は、協議会便りに載せられたものです。

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     総勢70人程で、疎水溝をたどって、取水口の方まで歩きました。

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     現地で、ガイドの方の説明を聞きました。そのあと記念写真をとって、稲荷川添いを通って帰りました。

     なおガイドで使用した疎水溝のパネルは、その年の本校の文化祭でも掲示しました。

     

  • 2021年08月28日(土)

    日本史おすすめ本 その12

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (12)

  • 2021年08月27日(金)

    学校周辺の史跡 その7 ~東目筋

    薩摩街道

     水色の線が,西目筋。ピンクの線が,東目筋です。

     江戸時代,薩摩藩の陸上交通における領外への幹線街道は,西目筋と東目筋に分けられていた。西目筋は鹿児島城下→(西田橋)→伊集院→市来→串木野→川内→阿久根→出水と続き,豊前・小倉に向かい,東目筋は鹿児島城下→実方→吉野→吉田→(白銀坂/2006国指定史跡)→重富→加治木と続き,そこから大口筋,加久藤筋,日向筋(高岡筋)と3方に分かれていく。日向筋は,その後海路で大坂・江戸へ向かっていくことになる。

      東目筋は,明治6年(1873)海岸線が重富まで開通するまで,この吉野-白銀坂が重要な道路だった。鶴丸城→上町→たんたど→実方(太鼓橋,御内用方,別府晋介・桐野利秋誕生地,実方神社)→帯迫(現吉野小,第12郷校,吉野私学校,吉野薬園)→御召覧の岡→菖蒲谷→関屋谷→牟礼ヶ岡→吉田→白銀坂へ

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     東目筋は本校生徒がいつも利用しているバス路線と重なっています。鶴丸城から10号線を北東へ,柳町→大龍小学校前→玉龍高校前→鼓川→お茶の水→たんたど→東高校下→東坂元四丁目→葛山入口バス停を過ぎて左に曲がり(写真の所です),実方方面に向かいます。この道は西南戦争の時に,西郷さんが行きも帰りも通っています。

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    東目2

     平成29(2017)年9月30日 観光ガイドで、本校生徒が東目筋についてガイドしています。

     後半は西南戦争で敗走する西郷軍がこの道を通り,城山まで突入する時の話をしています。

     明治10(1877)年2月15日西郷隆盛ら挙兵し、西南戦争が始まった。西郷軍は熊本城を包囲したが落とせず、3月田原坂(熊本)で政府軍と激突し敗走、6月人吉(熊本)、7月宮崎方面と退却し、政府軍の包囲網を突破して鹿児島に帰り、城山にこもり、9月24日城山も陥落、西郷以下、桐野利秋、別府晋介ら討ち死にし、7ヶ月に及ぶ戦闘は終結した。
     城山に帰る途中、江戸期の東目筋のルートを通り、帯迫・実方で、西郷軍と政府軍が戦っている。西郷軍は蒲生→吉田→吉野へ南下。9月1日帯迫→実方→稲荷町→城山へと進んだ。対する政府軍は、南下する西郷軍を迎え撃つため、第2旅団(坂元→下田→川上)と新撰旅団(たんたど→実方→帯迫)の二手に分かれて進み、この内新撰旅団と西郷軍が衝突した。
     9月1日午前10時05分 帯迫の戦い。西郷軍が吉野私学校(現吉野小)で休憩している時、政府軍から攻撃あり。西郷軍の前軍は辺見十郎太が率いて鹿児島に突入。中軍の貴島清は帯迫で戦い、後軍の河野主一郎が実方橋を守った。辺見が負傷したので、河野が代わって指揮をとり、私学校から米倉(現鹿児島市役所)を砲撃。
     9月1日午後1時頃 実方の戦い。河野は鹿児島での応援を求められ、水間蓮に40余名を残して実方橋を守らせた。翌2日に実方は政府軍に占領された。前軍の西郷は、護衛されながら、城山に入ったと思われる。

  • 2021年08月27日(金)

    第2回 就職模擬面接です。

     8月26日(木と)27(金)の2日間,就職模擬面接を行いました。今回は特にコロナ対策として,通常のマスク・アルコール消毒の徹底のほか,面接官の前と横にアクリル板を設置し,面接官と生徒の間を2m以上開けるなど,感染対策に十分配慮した形で実施しました。

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     本校では,就職希望者に対して,3回模擬面接を実施しています。今回はその第2回目と言うことで,夏季課外で十分対策をとった上で臨みました。今回はハローワークの澤田さんと有本さんのお二人に,面接官をお願いいたしました。

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     面接控え室の教室には,今後の日程と必要なもの,注意すべき事なとが書いてありました。いよいよ就職選考が近づいてきました。最大限の努力をして第一希望の会社に内定をもらえるように頑張りましょう。

     

  • 2021年08月26日(木)

    突然、緑の塔が‼

     大竜小近くから前方の山の上を見ると,本校体育館の赤い屋根が見えます(この写真では見えにくいですが)。ところが昨日から左手に緑の塔が見えます。何だこれは?!

    緑の塔と体育館

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    その正体は………。

    本校グラウンド角にある高圧電線の鉄塔が,塗装作業のためか,緑のカバーがしてありました。

  • 2021年08月26日(木)

    日本史おすすめ本 その11

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (11)

  • 2021年08月23日(月)

    日本史おすすめ本 その10

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (10)

  • 2021年08月22日(日)

    学校周辺の史跡 その6 ~実方橋

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    (上)現在の実方橋の写真です。平成5(1993)年のいわゆる「8・6水害」以後掛け替えられました。

    (下)流される前の実方橋の写真です。

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    実方周辺地図

     地図の出典:西元肇『吉野台地の史跡 石碑・石塔を読む』(1999.8)

     本校から、実方方面に向かって進むと、実方橋が見えてきます。今まで紹介してきた史跡を、西元さん作成の地図で確認してみてください。

     実方太鼓橋は、江戸時代「東目筋」と呼ばれる、鹿児島と重富方面を結ぶ重要な道路にかかる橋として大切な役割を持っていた。しかしいつごろだれが作ったかについては橋に銘もなく分からない。昭和61(1986)年鹿児島市が学術調査をしたが、年代・作者は不明で、江戸初期と言われている。当初は木橋だったが、のち石橋に改められたのではないか。平成5年(1993)のいわゆる「8・6水害」で流出し、同7年3月新しく鉄筋コンクリートの橋が架けられた。
     また以前触れたが、平安中期の歌人藤原実方の歌「いかにせむ久米路の橋の中空に渡しも果てぬ身とやなりなむ」に因んで、この橋を実方橋といい、周辺の地名になったのではないかとの説がある。
    「久米路の橋」は「役の行者が神に命じて、大和の葛城山から吉野の金峰山まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったために完成しなかったという」との故事から、多く和歌で自分の恋が成就しないことの例えとされる。

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    平成29(2017)年9月30日 観光ガイドで、本校生徒が実方橋についてガイドしています。このミニツアーに参加された方は、とても熱心に聞いて頂きました。

  • 2021年08月21日(土)

    学校周辺の史跡 その5 ~平田可竹庵跡

     本校から、実方方面に向かって進み、実方橋を渡る手前で左に曲がり、20mほど進むと、左手が平田可竹庵跡になります。

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    (上)道路を挟んで両側一帯が可竹庵跡です。特に説明板はありません。(下)右手の高台を、坂の上から見た写真です。

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     城山の近くに薩摩義士碑がある。江戸中期の木曽川治水工事を担当した、有名な家老平田靭負ら薩摩藩士の顕彰碑である。実は本校の近くに、その同族でないかと思われる人物の、平田可竹(宗弘)が、晩年過ごした跡があるのだ。
     戦前の吉野の郷土史家平田猛著『吉野の史蹟』に、江戸初期の弓術の達人平田宗弘の話が出てくる。宗弘の祖父は射術を日置流東郷重尚・吉田印西に学び、代々射術の達人で門弟も多数あった。宗弘はその他兵法・書画・和歌等多芸多能で、藩の吟味役も勤め、四十歳で出家し四国遍歴もしたそうだ。十八歳の頃二張の弓を同時に引いたり、百射百中を披露したりとの逸話が残る。実方橋の近くに可竹庵を作り晩年そこに住んだらしい。

     

  • 2021年08月19日(木)

    日本史おすすめ本 その9

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (9)