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  • 2021年08月19日(木)

    学校周辺の史跡 その4 ~実方神社

    実方神社写真

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を渡り、坂道を上ると、信号があります。そこから左ななめに進むと、実方神社があります。 

     神社の創建など由緒については、資料が何も残っていないのではっきりしたことは分かりません。天照大神、大山祇神(山の神)を祭っていて、古くから地域の産土神(鎮守の神)として崇敬されています。神殿には石造の御神体と菅原道真の木像が安置されています。明治12(1879)年に、天神山にあった天満宮の菅原道真の木像が 実方神社に一緒に祭られました。その木像の胎内に由来が次のように記されています。
     鹿児島の天神山(実方の少し北の所)に、宮之城島津家5代目久竹公の別邸がありました。久竹公は以前から学問好きで、天神山にお堂を作り、学問の神様菅原道真公の像を祭り、別邸の守り神にしようとしました。そこで江戸前期の貞享3(1686)年に、家臣の鳥居忠有が、菅原道真の像を作りお堂に納めました。実方神社の案内板には「祭神は平安時代の歌の神様である藤原実方ではないか」と書かれています。藤原実方は、源氏物語の作者紫式部とも関係があり、百人一首にも採用され、当時有名な歌人でした。

     本校の一番近くにある、学問の神様をまつってある神社です。3年生はこれから進路実現に向けて頑張りましょう。

  • 2021年08月17日(火)

    学校周辺の史跡 その3 ~別府晋介誕生地碑

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を通り、しばらく進むと道路脇左手に四角い石を4つ重ねたものがあります。これが目印です。ここを左に曲がっていくと,途中左側に入ると第1回で案内した「御内用方跡」があり,曲がらずに過ぎると,右手に「別府晋介誕生地」があります。 

     別府晋介は弘化4年(1847)実方に生まれ、桐野利秋はいとこに当たり、この2人は実の兄弟以上に仲が良かったと言われています。
    別府は戊辰戦争で活躍し、常備隊の小隊長に任命されました。西郷隆盛を厚く尊敬していて、西郷の上京に同行したり、朝鮮半島への視察等、腹心として仕事をしました。しかし明治6年西郷が征韓論争で敗北して下野すると、別府は桐野と共に帰郷します。その後私学校の創設に尽力して若者の育成に努め、加治木郷の区長になりました。明治10年の西南戦争でも独立大隊の隊長として奮戦します。9月24日、銃弾を足に受け動けなくなった西郷が切腹を覚悟すると、別府晋介は駕籠から降りて「御免なったもんし(お許しください)」と叫びながら西郷の介錯をしました。その後、自身も岩崎谷で自決しました。31歳という若さでした。この日、死を覚悟した別府は自分の側を離れようとしない部下に「早く逃げろ」と叱った話が伝えられています。また、自身の俸給を部下に分け与えたという逸話からも、別府の人柄は公平無私であった事がうかがえます。

     20170930別府晋介入口

     ミニツアー参加者を案内しているところです。左端のオレンジの方は本校平成11年度卒業生で、ミニツアーの企画をされました本田静さんです。

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     平成29(2017)年9月30日 本校生徒が観光ガイドをしたときの様子です。生徒会長をしていた田中君のガイドです。しっかり石碑を手で示して説明しています。

  • 2021年08月16日(月)

    平成26年度 第8回 話してみよう韓国語 全国大会第3位の記事

     南日本新聞 平成27(2015)年3月25日(水)の記事に,「話してみよう韓国語」全国大会第3位の記事が載っていました。

    2015032韓国S全国3位

     今年は,12月12日(日)に,鹿児島大会が鹿児島女子短期大学で開催される予定です。今年も本校からの参加があるそうなので,がんばってください。

     詳しくは本校HPトップ画面左下の,関連団体リンク「駐大阪韓国文化院」から,「話してみよう韓国語」「各大会のホームページ及び問い合わせ先」「第17回「話してみよう韓国語」鹿児島大会」ホームページを見てください。

  • 2021年08月15日(日)

    学校周辺の史跡 その2 ~桐野利秋誕生地碑

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を通り、坂道を上って,信号を右に曲がると,桐野利秋誕生地碑があります。今は実方公園になっています。 

     桐野利秋は、天保9年(1838)吉野村実方で生まれた。幼少から示現流の立ち木打ちに徹し、文久2(1862)年島津久光に従って上洛し、勤王の志士として名を馳せた。西郷隆盛からも認められ、戊辰戦争では東北にまで転戦して活躍し、維新後陸軍少将となった。その後熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所長となったが、明治6年征韓論争により帰郷し、私学校を設立し、吉田で開墾に励んだ。
     明治10年の西南戦争では、薩軍の総参謀となり大活躍したが、同年9月24日城山の岩崎谷口で生涯を閉じた。
     無学文盲と言われたがそんなこともなく、同時代の勝海舟や大隈重信にも評価されていた。また、洒落者として有名で、陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。

    20170930桐野ガイド

     平成29(2017)年9月30日 本校生徒が観光ガイドをしたときの様子です。写真左端がガイドの生徒です。

     

  • 2021年08月14日(土)

    南日本新聞に,8月4日の選挙を語る会の記事が載ってました!!

    8月13日(金)付南日本新聞の記事から

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  • 2021年08月10日(火)

    日本史おすすめ本 その8

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (8)

  • 2021年08月09日(月)

    学校周辺の史跡 その1 ~御内用方跡(藩の製紙場)

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     本校から実方方面に歩き、実方橋を渡ってしばらく進んでから左に入ると、御内用方跡がある。それは薩摩藩主御用として、最上質の紙を製造していた紙屋の跡である。古代の薩摩国は、税として紙を納めていた。江戸初期に薩摩藩は楮(紙の原料)の品種改良を試み、美濃国から技術者を招いたりした。また3代島津光久は、領内に楮を植えさせ、女子に紙漉きの技法を習わせ、各所に紙屋を設けさせた。そのため古くからこの地では下級武士が携わり、武家の妻女が従事していた。幕末の志士桐野利秋も少年の頃より農業を行いながら、紙漉きも従事して、家計を助け母を養っていたという。実方橋のすぐ上流の岩で、楮をたたいて柔らかくしたり、実方神社の真下の疎水溝の水を用水として利用していたらしい。楮をたたく音が、ちょうど太鼓を打つ音に聞こえ、鼓川、たんたどの地名の由来とされる。明治後も製紙は続けられ、実方紙として市内でも販売されていたとの話である。

  • 2021年08月08日(日)

    日本史おすすめ本 その7

      長い夏休みです。この期間を利用して読書してみませんか。これから,日本史にまつわる本を紹介したいと思います。

    日本史おすすめ本 (7)

  • 2021年08月07日(土)

    本校所在地「葛山(かつらやま)」の由来について。

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     本校2号棟4階(化学室前)から,北側を見た風景です。

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     写真中央に鳥居が見え,その上に実方神社が見えます。

     本校所在地の葛山の由来について、葛(かづら)が群生していたためと説かれることが多いが、ここでは葛城山説を考えてみたい。
     本校校舎4階から北側を見ると稲荷川を挟み実方神社が正面に見える。神社の説明板には、実方という地名は平安中期の歌人藤原実方に由来するとある。『新古今和歌集』にある実方の歌「いかにせん久米路の橋の中空に渡しも果てぬ身とやなりなん」から採って実方橋となり、周辺の地名となったとされる。
     歌中の久米路の橋は、役行者が(奈良の)吉野山から葛城山に架けようとした伝説上の橋のことだが、鹿児島の吉野から実方を挟み、本校の葛山に至る位置関係が類似している。葛山が奈良の葛城山に因むと考える所以である。こじつけと言われそうだが、周辺地域には古歌や伝説に関わる地名が多く見られ、近世初期の和歌を好む島津の殿様が、地名の名付けをしたのではないかと思われる。

     

     

     

     

  • 2021年08月06日(金)

    8・6水害ゆかりの絵「実方太鼓橋」

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     本校事務室前の廊下に,平成5(1993)年8月6日のいわゆる「8・6水害」に関する油絵が飾られている。

     その下に,絵の由来を示す銘板がある。

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     それによると,「1994(1993の誤りか).8.6」に,大雨洪水で流失した日本最古の太鼓橋(伝)を,その前年(1993とあるが,1992の誤りか)の,ちょうど1年前の同日に,栫 七子(平成6(1994)年度卒)さんが描いたものという。元PTA会長の栫 誠耕さんが1996.4に寄贈したものとのことである。

     幕末の岩永三五郎(肥後の石工)造の五石橋以前の,鹿児島の石造技術を示す,旧実方橋の姿を伝えるものとして貴重である。