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2022年3月15日

  • 2022年03月15日(火)

    東高校の歴史 その5

    園芸・農芸時代

     昭和32(1957)年吉野地区に鹿児島園芸高等学校が出来ました。伊敷は,園芸高校分校となり,34年に鹿児島農芸高校として独立しますが,40年に統合されます。この時期を仮に,「園芸・農芸時代」としたいと思います。吉野の園芸,伊敷の農芸です。
     両校とも33年に創立10周年記念式典を挙行しました。園芸高校は久保校長が初代校長となり,36年退任し頴娃高校へ転任します。2代校長は川村純二校長(県社会教育課長から)です。川村校長は後で鹿児島東高校の初代校長にもなり,以後都合7年間勤めることになります。

    久保校長顔  川村校長顔  川村純二

    伊敷分校の初代校長は引き続き酒井清校長です。34年農芸高校として独立した後は初代校長は中園喜節校長です。同5月に独立開校記念式典を挙行します。39年に中園校長が退任(日新高校へ)した後は,2代奥哲香校長(大村高校から)です。40年3月に園芸高校に統合されその幕を閉じます。

    中園校長顔  奥校長顔
     『創立三十周年記念誌』には,当時の新聞記事が多数掲載され様子が分かりますので,それを中心に見ていきます。

    1-1

    (上写真)フランス菊の切花出荷の実習作業

     昭和30年年代前半は開設当初ということもあり,県下唯一の園芸高校として評価が高いです。鹿児島は気候高温に恵まれ,暖地に適した野菜・果樹・花卉の栽培や,畜産・農産加工等の技術指導に重点を置いている。観賞用の熱帯植物・造園熱も盛んだ。 100坪の温室で 100種類以上の珍しい熱帯植物を栽培している。生徒の9割は農家でその内半数は鹿児島市近郊で遠くは奄美・種子島等からも来ている。3~4反の畑地では普通のやり方では駄目で,程度の高い園芸を望み,卒業生の半数以上が自営を希望している。市は1人1万円支給,毎月10名ずつ1ヶ月,静岡・愛知等先進地域へ実習にやっている。就職先は観光事業・肥料・農薬・種苗・農機具・食品工業,将来は都市緑化や観光に期待している。切花販売では,男子生徒が生け花に熱中し研究している。植木市での苗木類は好評で,秋の菊花展示会は市の名物となっており,2000人以上の参観があるそうです。(西日本新聞S33.6.28)

    1-2 園芸校章

    (上写真)昭和34年相撲県大会 園芸高校初優勝 / 園芸高校校章 
     校内の樹木の種類の多さや珍しい植物や野菜等があり,観光バスのコースにもなっている。年間見学者3000人,1日 100人県内外から訪れる。一番力を入れているのは,菊の電照栽培で,温室3棟( 200㎡)に年3作で, 1.8万本が栽培されている。在学中先進地の福岡県糸島郡を視察した卒業生は 660㎡のビニールハウスで菊栽培している。市の補助金で昨年度は13人が視察に行った。果樹班は東桜島や吉野地区でみかんの根つぎを 600本して,今年は3000本予約ですでに 500本は送った。卒業生は自営,園芸方面に就職する者も多く,県・市の公園係,貸鉢業,造園業,観葉植物・造園・盆栽など,生徒の意欲は高く就職先も広がっている。(西日本新聞S35.4.9)

    2-1

    (上写真)園芸高校 温室菊栽培の様子
     しかしながら30年代後半は農業教育全般に関わる問題が顕在化してきます。
     鹿児島市近郊では農業に見切りを付け,他の職場に就職する傾向が強く,農村は年寄りだけの留守番農業になっている。市内の農業高校では,男子の半数,女子のほぼ全てが農業以外に就職しているという。36年度鹿児島農芸高校卒業生77人の内,農業科(男子のみ)36人の半数は京阪神の鉄鋼関係,市内の中小企業の工員・事務員で,家庭科(女子のみ)41人の9割以上は阪神・北九州の会社で農業とは無関係の就職だ。鹿児島園芸高校卒業生73人の内,園芸科(男子のみ)44人農業自営が10人,県外17人,県内外の工員等17人で,家庭科(女子のみ)29人は農業以外の就職だ。若者は学校の指導方針とは裏腹に農業にソッポを向いている。卒業生は30㌃ほどの経営では食っていけないという。池松教育長は両校の必要性,産業教育のあり方を検討する必要があると述べた。(南日本新聞S36.2.2)

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     30年代半ばに農業高校の危機が言われました。昭和36年5月の鹿児島市教育委員会の鹿児島園芸・農芸の両高校を廃校にして,工業高校に発展的解消をするという構想を発表したのがきっかけです。農芸高校同窓会の陳情書,高校教職員組合や地元民の反対があり,農業高校論争となりました。背景として,ベビーブームによる生徒数急増への対策があります。県としては高校再編により高校新設,学級増で7月中に結論を出す必要があった。国は新設工業高校だけにしか 1/3の補助金を出さない方針だった。また当時農家・非農家の所得格差が広がり,農村人口の地滑り現象,農家4割のクビ切り等,農業基本対策が出てきた。農業高校の生徒数を減らし,普通科・工業科に切り替えたら良いのではとの考えあり。しかし農業教育が花形の工業教育のしわ寄せになっている,現在の農業教育の目標にはスジ金が入っていないなどの反対意見もある。(南日本新聞 S36.6.22)
     昭和37年3月の鹿児島市議会の全員協議会で,池松教育長は両校の廃校は忍びないので,統合して県立移管することを県に陳情したいと述べた。ちなみに36年5月の市教委の計画した高校急増対策は,5年制工業高校の誘致は37年に誘致見通し(鹿児島工業高等専門学校のこと),普通科高校を市内に新設(鹿児島中央高校のこと),電気工業高校新設は,鹿児島工業高校に学科新設,玉龍・鹿女子・鹿商に学級増で対処となった。(南日本新聞S37.3.14)

    4-1

    (上写真)昭和38年に南北の農業高校で交歓会(6年前に姉妹校盟約)。南日本新聞S38.5.14
     瀬戸山弘(鹿児島農業高校旧職員)「鹿児島農業高校の新設時をふりかえって」(40-p.93) によると,昭和38(1963)年(36年の誤りか)秋に,突然夕刊に「園芸高校廃校と鹿児島市教育委員会案」が示された。廃校理由は市立4高校の中で,園芸高校一人当たりの教育費が存外に掛かり他の職業系の高校に変えようとの記事だった。職員の学校存続の熱意は激しく,早速この件で連日職員会議を行い,「本校の農業教育は県農政上からも必要」との資料が作成され,市教育長との面談を行い存続が確認されたとのことです。
     ちょうど昭和30年代は,30年~神武景気,34年~岩戸景気,39年東京オリンピックと,高度経済成長時代で,農業より工業を優先する風潮の中,そのあおりを受けた部分があったのではと思います。
     最後に,『創立記念誌』の中から当時の状況を見てみたいと思います。
     今福壓男(鹿児島園芸高校旧職員)「坂と山の思い出」(40-p.90) によると,今福氏は昭和31(1956)年に鹿児島農芸高校(大農芸)に赴任後9年間吉野の鹿児島園芸高校に勤務された農業の先生だったそうです。吉野は兼業農家を主とする都市型農村地帯で,早朝滝ノ神坂からリヤカーで,農家の女性が野菜の行商をされていた。生徒は吉野・谷山・桜島・吉田と各方面からのバス通学で,離島や指宿方面の人は寄宿舎での生活だった。氏は畜産が専門で,乳牛2頭,豚2頭,鶏百羽の小規模だったが,ハムやソーセージ作りを行った。苦労したのは牛の飼料作りで,草刈りが日課で,牟礼ヶ丘の島津興業の下草刈りをさせてもらった。夏休みには北部九州への県外先進農家実習があった。
     山口修(鹿児島農芸高校(伊敷)昭和36年卒)「伊敷の思い出」(40-p.92) によると,学校は現在の伊敷小の辺りで,コの字型に校舎が並び,二階建ての本館,講堂,農機具類を収納する倉庫等が並び,校庭には相撲の土俵,校舎裏には大きなヒマラヤ杉があったそうです。農業後継者の育成が目的で,生徒数は少なく1クラス30名余りだった。山口氏は農業科で,週1日は自宅実習で,5日登校。1週間おきに当番で日曜日に登校して家畜の世話をしていた。当時高度経済成長期で卒業生の半数は,県外の農業以外の分野に就職していたそうです。

2022年3月12日

  • 2022年03月12日(土)

    東高校の歴史 その4

    大農芸時代

     昭和25(1950)年に,吉野・伊敷・紫原3地区にまたがる鹿児島市立鹿児島農芸高等学校が誕生しました。これは鹿児島市高等学校組織改編によるもので,吉野分校が中心校とされました。のち伊敷地区で同名の学校が出来るので,区別するために,仮に大農芸高校,大農芸時代と称することにしたいと思います。

    原田校長顔   久保校長顔
     本校は同年5月に独立開校記念式典を挙行し,7月には校章が制定されました。吉野分校校長は初代原田誓之氏(大口高校から転任。昭和25~28年度),2代久保政司(県教委主事から転任。昭和29~31年度)であり,伊敷教場校長は酒井清氏でした。吉野分校は昭和29年に農業別科を募集停止となり,翌30年に家庭科定時制が新設されました。伊敷教場は28年に伊敷分校となり,30年には家庭科が新設されました。
     それでは,『創立記念誌』から当時の様子を見てみたいと思います。
     井上洋逸(昭和27年定時制農業科卒(吉野),同窓会長)「おもいで」(30-p.78),同「難儀無くして実りなし」(50-p.88)によると,井上氏は終戦の年14歳で,伊佐農林高校の1年生だったが,昭和23年4月から農業科定時制週4日出校の学校が出来るという朗報が入りすぐに飛びつき,その時の嬉しさは忘れられなかったとのことでした。教科は蔬菜部,園芸部,畜産部等があり,最初の1・2年は蔬菜部を選んだ。授業の大半は実習作業で,堆肥の増産,作付け,管理,除草,間引き等で,品評会や販売等も地区ごとの農協や学校で行った。白菜植え付けで,灌水作業はとても大変な作業だったとあります。後半3・4年は園芸部で勉強したそうです。菊作りでは用土作りが基本で,山に落葉拾いに行き,堆肥舎で発酵させ用土が出来る。灌水・施肥・薬剤散布・摘芽・摘花・大菊・懸崖作り・枝作り等一年がかりだそうです。卒業後花市場協同組合に3年半勤め,園芸家として自立したそうです。
     中森重喜(昭和28年3月鹿児島農芸高校卒(吉野))「四十年前のスケッチブックから」(40-p.89)によると,昭和24年に鹿児島高等学校第四部吉野分校本科に入学。当時県立養護学校(旧所在地で,現吉野いきいき公園)のある所で,正門入るとドラセラの木,黄金ヒバ,桜の木,白ツメ草の花が咲く素晴らしい環境だったそうです。授業は国社数理英,農業関連科目で,特に英語・数学は基礎基本を十分理解しないまま進学した者にとっては大変だったそうです。実習では中森氏は花卉を選び,温室で,ゼラニューム,シクラメン,洋ランなどがあり,作業はピンセットを使っての仮植・移植・水かけ・用土作りだったそうです。普通作の実習で馬車を利用し,畜産の実習では,にわとり・羊・痩せ馬・豚の世話を行い,蔬菜の実習では白菜・キャベツの植え付け・灌水・施肥等をしたそうです。下の写真は丹精込めて1年掛けて作った菊でしょうか。

    中森40-89
     江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和25年鹿児島農芸高校紫原分校ができ,生徒数80名,3教室が新設され,仮教室と併せて6教室になったそうです。当時は生活に追われ,昼間学校に来て勉強できる者は少なく,教師は夜生徒の所に行って各地区の公民館(当時は青年舎,クラブ)で夜間授業をしたり,食料事情も悪い中,校長自ら先頭に立って生徒の教育に当たられたそうです。当時百名以上の生徒が維持できれば独立校として認めるという市の意向だったが,80名にとどまり,昭和27年に廃校となり,在籍の生徒達は吉野の農芸高校や鹿大教育学部附属高校(伊敷)他に転校したそうです。下の写真は以前出しましたが,鹿児島農芸高校紫原分校の写真です。

    紫原2
     上山佐五次(旧鹿児島農芸高校教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和25年吉野,紫原教場は統合され,鹿児島農芸高校となり独立し,鹿児島教場は鶴丸高校の定時制として併設されたそうです。青年師範学校附属校(伊敷)は青師が鹿大教育学部に編入,昭和26年募集停止となり,鹿児島農芸伊敷教場として新出発となり,上山氏はその分校主事となったそうです。特色として登校しない日を有効活用するために,「ホームプロジェクト」を採用しました。それは親を地主として土地を借り受け,自ら栽培設計して,教師のアドバイスを受けながら家庭実習を行い,教師は各家庭を巡回指導し,生活指導・進路指導を行うというものでした。久保校長の経営手腕により進展し,園芸振興のセンター的役割を果たすべく施設設備の近代化,技術指導者の招聘,愛知・静岡の先進地への派遣等実績を上げたそうです。

    heiwajoyaku(写真)平和条約締結
     昭和25年には朝鮮戦争が起こり,特需景気がもたらされ,26年サンフランシスコ平和条約が調印され,翌27年に発効し,日本は占領期間が終わって独立国家としての主権を回復しました。28年にはテレビ放送が始まり,30年には保守合同で自民党が誕生し,55年体制がスタートしました。31年には日ソ国交回復し日本の国連加盟が認められ,経済的には「もはや戦後ではない」と言われ,神武景気となりました。こういった戦後再出発の時期に,「大農芸時代」としておよそ7年間,鹿児島の農業教育を担っていたと思われます。

2022年3月6日

  • 2022年03月06日(日)

    東高校の歴史 その3

    鹿児島空襲1

    (写真:上・下)鹿児島空襲S20.3~8月(平岡正三郎撮影)の写真

     ついで戦後の歴史について『鹿児島県教育史』下巻(1961年),『鹿児島市史』第2巻(1970年)で見てみます。
     昭和20(1945)年8月15日終戦となり,荒廃状況の中,教育再開が模索されました。鹿児島はかつて南進基地で特攻基地でもあった関係で,空襲もひどく,その被害率は全国一とされました。市街地の9割を焼失した鹿児島市内の学校では,26校が焼け,さらに直後に台風被害(枕崎台風)もありました。

    鹿児島空襲2


     戦後はアメリカを中心とする連合国軍による占領軍政下に置かれ,昭和21(1946)年にはアメリカ教育使節団が来日し,教育改革の方針を示しました。鹿児島では,軍政部が,昭和21年初代長官グレイズブルック中佐が鹿児島市庁舎内に事務所を設けてから昭和24年まで続きました。最も大きな影響を与えたのは民事教育課のヴォート氏でした。民事教育課の軍政官たちは急激な改革で,アメリカ方式をそのまま鹿児島に当てはめようとしました。

     昭和23(1948)に新制高等学校が発足しました。根本方針として,勤労青年教育を重視して定時制課程を多数設置,男女共学,講堂・図書館等設備充実を行い,学校統合が断行され,旧制中学,女学校を36校に統合し,部制を実施しました。これは鹿児島の実情を無視したやり方で,アメリカ軍政部の意向で,強力に総合制が実施されました。すなわち県立5校を統合し,鹿児島県高等学校と称し,鹿児島工業を第一部,第二高等女学校を第二部,第一高等女学校を第三部,第二鹿児島中学を第四部,第一鹿児島中学を第五部にしました。また市立4校と市立青年学校3校を統合し,鹿児島市高等学校と称し,市立中学校を第一部,市立女子興業学校を第二部,市立高等女学校と市立鹿児島商業を第三部,市立鹿児島・吉野・紫原青年学校を第四部(定時制3教場)にしました。しかし,昭和24年に鹿児島県鹿児島高等学校は第三部と第五部が統合し鶴丸高校に,第二部と第四部が統合し甲南高校に,第一部は鹿児島工業になりました。また昭和25年に鹿児島市高等学校は第一部と第二部普通科が統合し,玉龍高校に,第二部と第三部他が統合し,鹿児島商業高校に,第四部は鹿児島農芸高校になりました。なお昭和31年に鹿児島商業から鹿児島女子高が分離しました(以上鹿児島市史第2巻による)。

    部制時代

     (出典:『鹿児島市史』第2巻p.953~955により作成)


     東高校の沿革と比べて昭和23~24年の部分に異同が見られますが,最終的に昭和25年に鹿児島農芸高校になっていくようです。

    沿革史図


     最後に,終戦直後~部制時代の東高校の状況を『創立記念誌』で見てみます。前回紹介しました,江口武雄「紫原分校」(40-p.85)によると,昭和23年新学制が施行され,紫原農芸青年学校は商業学校と一緒になり,鹿児島市高等学校第三部と称され,翌年玉龍高校,女子高校,商業高校をそれぞれ一部二部三部とし,紫原,伊敷,吉野の青年学校を第四部となったとあります。
     上山佐五次(旧鹿児島農芸高・教頭)「本校の揺籃時代」(30-p.74)によると,昭和23年新制高校発足し,本県では旧青年学校が母体となって昼間定時制を主とした高校が多く設置され全国的に珍しいケースだった。鹿児島市の紫原,鹿児島,吉野の3青年学校があり,市は総合制の部制で発足し,3青年学校は第四部で教場が設置されたそうです。吉野以外は戦災で校舎ほか全部無一物,公民館や仮設の小学校を借用して,夜間貧しい照明の下で,蚊に刺されながらの授業だった。教科書も無く教師用意のプリントや新聞記事などを教材とした。生徒の大部分は,青年学校からの編入,兵役からの復員,軍需工場から放出された者等,高年齢者もあり,かなりすさんでいたが,次第に向学心を取り戻し,先生方も空腹に堪えながら青年たちと一緒に取り組んだそうです。
     家村綾子(昭和26年紫原教場農業科卒)「おもいで」(30-p.77)によると,昭和22年10月頃紫原の青年学校が体質改善,昇格して,新制高校の定時制高校となり,全日制には行けないが本人に向学の意志さえあれば入学できるという話が伝わってきて,そう裕福でもない農家の出だったが,手続きして入学したとのことです。市高校第三部紫原教場として開校し,入学。先生方7名,助手・用務員3名,生徒数は百数十名程だったそうです。

     泊口利道(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「学制改革期の思い出」(40-p.87)によると,昭和23年かつての紫原青年学校が新制の定時制高校として発足することとなり,先生方の勧めもあり,地区青年団の一部有志と語らい入学してみようとなり,地区の公民館で編入試験を受け,定時制高校3年生となったそうです。生徒は皆仕事を持った社会人で,平日は夜,休日は昼間の登校で,校舎は旧青年学校の焼け残り1棟でみすぼらしいものでしたとあります。発足当初は第三部で昭和24年に第四部と改称したそうです。

    s23大迫

     (上写真:大迫氏S25.3卒業時の写真。)
     大迫輝夫(鹿児島市高校紫原教場S25.3卒)「紫原教場の思い出」(40-p.88)によると,戦争に2年間従事して復員し,当時の紫原青年学校に入学し,その後市高校紫原教場に編入したそうです。働きながら勉強する青年諸君が集まっており,農業従事,市役所職員,県職員,電電公社,中小企業など多種多様で,年令差も5~7歳ぐらいありました。平日は夕方5時30分から夜9時過ぎまで,5教科以外に農業に関する化学とか畜産関係の授業もありました。職場には教科書持参で4キロを自転車通学でした。日曜日は朝から出校して農業実習や体育授業,バレー大会は楽しいひとときでした。先生方は夜間と日曜出勤で大変だったろうと思います。
     戦後混乱期の中での教育など様々な苦労がしのばれる一方,戦前の青年学校での教育が受け継がれており,教師と生徒らが戦後復興を目指して努力された様子が伝わってきます。

2022年3月2日

  • 2022年03月02日(水)

    東高校の歴史 その2

    伊敷青年学校

    (写真)県立伊敷青年学校(『躍進の青年学校』より)

     東高校の直接の淵源は,青年学校になります。戦前に成立した『躍進の青年学校』(S16(1941)年)から紹介したいと思います。
     鹿児島県の青年学校数は 184校で,1町村平均数は 1.3校です。生徒数は59,640人です。
     県立青年学校が2校(伊敷,市来)で,町村立・私立が 182校あります。その内現在の鹿児島市内にあるのは,鹿児島・荒田・松原・西田・吉野園芸・紫原農芸・天保山・中洲・大龍・山下青年学校,私立青年甲南実践女学校,私立薩摩片倉・私立山形屋・私立吉見鉄工所青年学校,県立伊敷青年学校,谷山町立青年学校,谷山町立実践女学校,吉田村立青年学校,西桜島村立・東桜島村立青年学校,喜入村立青年学校の17校+私立4校計21校になります。その中の吉野園芸・紫原農芸・伊敷青年学校が,東高校の前身の学校になります。
     3校の内,最も生徒数が多いのは吉野園芸青年学校で 484名(男子 319名,女子 165名)です。ついで県立伊敷青年学校で 481名(男子 356名,女子 125名)です。紫原農芸青年学校は 393名(男子 187名,女子 206名)です。

     吉野園芸青年学校は,昭和6年に吉野村内3実業補習学校,3青年訓練所を廃して,吉野公民学校,高等公民学校を吉野尋常小学校に附設しました。昭和9年に鹿児島市に併合され市立化し,昭和10年に青年学校となりました。
     県立伊敷青年学校は,校長は県立青年学校教員養成所長と兼任していました。青年学校生徒は普段は就労・就農しながら,夜間に通学するという形です。「学校にして学校にあらざる学校」として,家庭生活指導を徹底するという方針でした。また昭和10年から専任教員の部落駐在制を実施し,職場訪問して現場指導を行うものでした。また教員養成所に附設している関係で,教育実習指導も行いました。

    青年学校教員養成所

    (写真)県立青年学校教員養成所(『躍進の青年学校』より)
     紫原農芸青年学校は,昭和10年に宇宿中等公民学校,同青年訓練所,県立実業補習学校,田上青年訓練所が廃止され,田上町に新設されました。その特質は部落男女青年団と学校との連絡提携のため,毎月1~3回部落常会に部落専任教員が出張し,部落別生徒異動表・生徒個人別出席状況表により不就学欠席の指導督促,世話係を任命し指導徹底を図る。蔵書の貸出,新聞切り抜きの奨励,講演・ラジオの聴取,教員の巡回指導等でした。なお田園都市の農業として,副食物を提供するため,蔬菜,温州ミカン,レモン,柿,雑柑の栽培。また就職を斡旋し,昨年度より職業指導科,商業科を設け,会社の事務員指導等を行いました。

    紫原農芸青年学校

    (写真)紫原農芸青年学校(『躍進の青年学校』より)

     以上のように青年学校は,就労・就農と勉学の両立,職業訓練等を担い,小学校卒業後の教育を担当していたことが分かります。このことが東高校の前身である農業系学校の基礎となっていきます。
     最後に東高校の創立記念誌から当時の様子を抜粋します。『創立40周年記念誌』p.85(以後40-p85と略す)の江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」によると,江口氏は昭和13年紫原農芸青年学校に赴任し,昭和27年紫原分校廃校まで勤務したそうです。紫原農芸青年学校は昭和10年4月に田上町広木に設立され,職員は教師7名,指導員3名他で,生徒数は本科男子1年から4年まで,各学年約50名,女子は各学年約30名だったそうです。約というのは,当時の生徒は仕事を持っていて,仕事の都合で通学する生徒が荒田の青年学校に変わったり,西田に変わったり,又他から転入したりして常に一定しなかったためです。男子は兵隊に行くまで在学し,午前は一般教科,午後は教練でした。空襲で学校は全焼し,その跡に仮校舎が建っていて,江口氏は復員後教員となったそうです。戦後の新学制で商業学校と一緒になり鹿児島市高等学校第三部となり,紫原・伊敷・吉野の青年学校をまとめ第四部となったそうです。

    紫原2

    (写真)江口武雄(鹿児島農芸高校紫原分校旧職員)「紫原分校」(『創立40周年記念誌』p.85)より。戦後の農芸高校紫原分校の写真か? ほとんど男子で,女子は2人? 男女一緒に写っていますね。

  • 2022年03月02日(水)

    新聞に載っていました!!

     令和4年3月1日付南日本新聞に,3年生油田さんの記事が載っていました。

    R4.3.1南日記事生徒ms.

     

2022年3月1日

  • 2022年03月01日(火)

    卒業式です!!!

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     本日,令和3年度 卒業式(普通科第51回)が行われ,3年生59名が卒業しました。

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     卒業生入場です。

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    卒業証書授与です。

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     校長式辞です。

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     鹿児島県教育委員会告辞です。

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     PTA会長祝辞です。本校PTA会長の田原和枝さんによる挨拶です。

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     在校生送辞を,現生徒会長の椿山さんがしました。

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     卒業生答辞を,卒業生代表の黒木君がしました。

     卒業生退場です。拍手で見送ります。

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     卒業式後,場所を大ゼミに移して,1・2組合同で,最後のLHRです。卒業証書を1人1人渡します。そのあと生徒2人が作成した,入学以来の学校行事の写真のスライドを見ました。

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     最後に,3学年職員全員に,花束と色紙の贈呈がありました。

     卒業生諸君は,これからそれぞれの新しい進路先で,頑張って欲しいと思います。

     

     

2022年2月28日

  • 2022年02月28日(月)

    授賞式,同窓会入会式,卒業式予行です!!

     本日,本校体育館で,授賞式,同窓会入会式,卒業式予行がありました。

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     はじめに皆勤賞(1ヶ年皆勤(上),3ヶ年皆勤(下3名))の表彰です。

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     ついで,教育委員会賞(2名)

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     次に,岩崎賞です。

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    その他多種目賞がありました。

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     予行指導のあと,同窓会入会式です。同窓会役員の土俊二郎さんがあいさつをされました。

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     卒業生代表挨拶を,黒木君がしました。

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     最後に卒業式予行が行われました。

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     卒業証書受領代表のあいさつです。3方に礼をします。

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     卒業式の祝詞です。昨年度までいらっしゃった先生方の祝詞が届いています。

     

     

     

  • 2022年02月28日(月)

    東高校の歴史 その1

    校舎

    校舎西側

     新シリーズです。東高校の歴史を振り返り,そのルーツを探りたいと思います。

     これから鹿児島東高校の歴史を見ていきたいと思います。東高校は平成30(2018)年に創立70周年を迎えました。昭和23(1948)年に新制高校が成立以来70年が経つということです。しかしその時はまだ「鹿児島東高校」ではありませんでした。校名等の幾多の変遷を経て,昭和44(1969)年に現在の校名となりました。
     東高校の歴史について考えることは,現在の東高校のルーツを探ることです。鹿児島の教育といえば,江戸時代の郷中教育があります。薩摩藩の青少年教育を指し,イギリス発祥のボーイスカウトの原型とも言われています。6~10歳までの小稚児を,11~15歳の長稚児が生活全般を教え,さらに15~25歳の二才と呼ばれる青年が指導するというものです。明治になってもその伝統は続き,西郷隆盛が征韓論で敗れて鹿児島に下野したあとは,私学校(現城山の鹿児島医療センター)が作られました。県内に 100校以上の分校がありました。また吉野には吉野開墾社が作られました。昼間は農作業をし,夜は勉学するというものです。西南戦争後は,それを継承する学舎が数多く作られ引き継がれました。
     戦前の教育は現在の小・中・高校・大学の単線型とは異なり,複線型と言われ,小学校卒業後は複数の選択肢がありとても複雑です。明治末段階で小学校はほぼ100%の就学率になりますが,その後は旧制中学校(現在の高校),高等女学校,実業学校(工業・商業・農業等),師範学校(教員養成学校)の選択肢がありますが,それらに進学するのは2割ほどとされています。残りの大多数は就職するか,家の農作業を担うことになります。明治後半から農家の子弟や就労者に対しても中等教育をとの動きが高まり,実業補習学校,青年訓練所(軍事教練)が設置され,昭和10(1935)年に両者が統合され,青年学校が誕生します。これが現在の大多数の高校の原型になっていきます。
     さて,東高校の沿革を見ると,その元は吉野・伊敷・紫原の各青年学校が統合されたものです。そのあと農芸高校・園芸高校と農業系の学校となります。昭和40(1965)に鹿児島農業高校が誕生します。しかしその4年後の昭和44年に鹿児島東高校となります。はじめは園芸科や農産化学科があり,その名残がありますが,昭和61(1986)年に園芸科が募集停止となり,国際教養科が新設されます。現在はその国際教養科も平成23(2011)年に募集停止となり,普通科のみの学校となっています。

    吉野伊敷紫原地図

     本校HPのトップメニュー「学校紹介」の「学校沿革」を見ると,昭和10(1935)年吉野,伊敷,紫原の各青年学校以降の歴史がありますので,それを見てください。上の地図にその場所や変遷を図示してみました。

2022年2月26日

2022年2月22日

  • 2022年02月22日(火)

    校長講話です!!

     先の金融セミナーの後,3年生対象で,松山武史校長先生による最終講話がありました。

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     今年度定年を迎えられます校長先生の最終講話です。

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     講話の間々に,生徒の様子を見られたり,積極的に話しかけられています。

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     今まで心に残った言葉を元に話をされています。

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     最後生徒代表として元生徒会長の油田さんからお礼の言葉と花束贈呈です。

     本日は大変貴重なお話をありがとうございました。生徒もしっかり聞いていたと思います。本当に長い間ご苦労様でした。お疲れ様でした。

     

  • 2022年02月22日(火)

    金融セミナーです!!

     

    金融

      今日は3年生出校日です。テーマは「金融トラブル」です。SMBCコンシューマーファイナンス(株)作成のDVDを視聴しました。

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     まず成年年齢について。今年の4月1日から,成年年齢が20歳から18歳に変わります。

     何が変わるのか。親の同意が無くても契約することが出来ます。→若い世代をねらった詐欺被害拡大の懸念。カードトラブル(名義貸しによるトラブル)。

     生徒のメモから

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     中にはイラストでまとめている生徒もいました。分かりやすい!!

    感想から

    ・18歳になったら,保護者の許可無く,自分の責任で色々なことができる。そして,トラブルやさぎに巻き込まれないようにするためにしっかりと考えて行動しなければならない。私も18歳なので成人として

    ふさわしい行動を心がけていきたい。そして,アルバイト詐欺という言葉をはじめて聞いた。親しい友人,家族でもクレジットカードを貸さないようにしたい。18歳として社会人としてしっかりと生きていきたい。

    ・簡単に人にお金や名義などを貸してはいけないと思いました。色々なローンなどで組めなくなってしまったりするので,そういう事には,気をつけて対処していきたいと思いました。また親しい友達でもそういうことはちゃんと区別をつけていきたいと思いました。将来はちゃんと断ることをできるようにしたいと思います。アルバイト詐欺などにも気をつけていきたいと思います。言われたらまずうたがったり調べたりして,ちゃんと理解してから利用したいと思いました。

  • 2022年02月22日(火)

    卒業生からのメッセージです!!

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     今日,3年前の卒業生2人が,学校を訪ねてくれました。2人は平成30年度の卒業生で,現在,赤塚学園看護専門学校3年生,鹿児島県医療法人協会立看護専門学校3年生です。インタビューの様子を紹介します。

    Q 看護学校ってどんな学校ですか?

    A1(赤塚学園) 同年齢が多い。学校によってそれぞれ違う。

    A2(協会立看護) 年齢も様々。主婦の人や私みたいに若い人。3分の1が男子。

    Q どんな内容を勉強するのかな?

    A 注射の演習がある。先生がお手本をして見せて,私たちがそのまねをする。

    Q 座学にはどんなものがあるのかな?

    A 看護技術,分野毎に小児,母性,在宅,老年がある。社会学。心理学。物理。英語。数学は,看護技術の中にある。点滴の計算や酸素ボンベとか。

    Q 実習とかは多いの?

    A 1年生の時は見学実習,病院に行って看護婦さんの動きを見て回る。2年生から本格的にある。6週間が2回。3年生は6ヶ月。在宅・訪問看護。老人ホーム,保育園に行く。記録が大変。家に帰ってすぐ日誌を書く。あとテストが大変。月から木曜日まで実習,金曜日にテスト。国家試験の勉強が大変。

    Q くじけそうになる? 辞めてしまう人がいる?

    A あります。辞めてしまう人もいます。

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    Q  高校時代どんなことを頑張っていた方がいいですか?

    A 勉強を頑張った方がいいです。国語,数学,英語,理科,社会,全部です。(国家試験に出るからでは無くて)勉強していた方が絶対いいです。どんどん難しくなるので,基礎になるので。現代文だったら言葉の使い方,コミュニケーション能力を鍛える。数学も必要です。絶対。理科も当たり前。基礎になる。国試にも出ます。

    Q どんな看護師になりたいですか?

    A2 災害看護師になりたいです。災害があった時に対応する看護師です。病院に就職して3年間勤めて,資格が必要。 

    A1 実習を通して,認知症,アルツハイマーの患者さんに触れて,(そういう患者さんに対して)偏見とかあって大変だけど,患者さんの話を聞いて,共感して,心に寄り添えるような看護師になりたいです。

     とてもためになる話をしてくれました。毎年看護師希望の生徒はいますが,看護の専門学校がどういうところで,何を勉強するのか。卒業したあとどういう進路があるのか,分からないことが多く,不安だと思います。先輩たちの話を聞いて,参考になればいいなと思います。2人は看護師の国家資格試験を受験して,3月末に結果が分かるとのことです。進路も決まっていて,鹿児島の医師会病院と米盛病院だそうです。夢に向かって頑張ってください。

2022年2月20日

2022年2月16日

  • 2022年02月16日(水)

    年金セミナーです!!

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     本日は,3年生の出校日です。今回は,年金セミナーです。各教室でDVD視聴となりました。

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    生徒の感想から

    ・最初は年金は若い頃に保険料・税金等で支払って老後になって働くことが難しくなったときにもらって生活するものだと考えていました。しかし,年金には老後だけでなく事故・病気といった不遇なことや働き手が亡くなった時にももらえるものだと学びました。また税金や保険料などの制度も免除制度・猶予制度などがあってどうしても支払いが出来ない人への救済措置のような制度があることも学びました。他にも様々な制度があり,複雑なことが多いですが,もうすぐ成人になるので,覚えて活用できるような社会人になって世代間で支え合えるようになろうと思います。

    ・年金についてたくさん学ぶことができた。障害年金,老齢年金があることを初めて知った。20歳になったら必ず年金を払うので,その仕組みを知るとこができた。年金についての知識を身に付けられたり,1人1人に合った年金の払い方がある。老後=年金というのではない。若い人にとっても大切な事であると知ることができた。老後に必要な生活費もとても多くかかるので,年金は老後の大切な安定収入である。

    ・「年金なんてまだ先のこと」だと思っていて,ビジネス実務の授業でもあまり深く考えてなかったけど,知っていないと損することになっていたことがたくさんあって,とてもいい時間になりました。

2022年2月12日

2022年2月9日

  • 2022年02月09日(水)

    薬物乱用防止教室です!!

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     本日3年生出校日です。3限目に薬物乱用防止教室が大ゼミでありました。

     新型コロナ対応のため,DVDでの視聴となりました。

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     ドラマ仕立てになっていて,とても分かりやすい内容でした。

      生徒の感想から

    ・薬物乱用については,定期的に授業で勉強していたため,改めて,乱用すると,これまでどれだけ夢に向かって頑張っていても,人生を棒にふるなと思いました。危険なので,絶対してはいけないなと思いました。誘われても絶対に断りたいと思います。

    ・未成年の間,自分で気を付けなければならないと思っていたが,大人になってからもビデオの内容のように身近なところに危険があり,しっかりと自分を持っていなくてはいけないんだなと思った。薬物の依存性,耐性,再燃現象は本当にこわいものであり,一生体験したくないことだと思った。社会に出てからもしっかりと自分を保っていきたい。

    ・依存性が一番恐ろしいなと思います。やはり一度使ってしまうと終わりだと思ったので,絶対に使わないようにしたいです。たくさん別名があったので,いきなり言われると分からないまま使ってしまいそうなので,まずは知ることから始めたいと思いました。売人が気さくだということは知っていたので,そういう人にも気をつけたいです。あと口車に乗せられないように気を付けたいです。

2022年2月5日

2022年2月1日

  • 2022年02月01日(火)

    進路体験発表会です!!

     1月31日(月)6限に進路体験発表会がありました。

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     今回は,新型コロナの影響で,校内放送での実施となりました。

     進学4人・就職4人の計8人の3年生が,それぞれの体験をもとにして,準備・受験・これからの心構え等について語ってくれました。

     就職:モロゾフ(株),(株)美創産業,城山観光(株),さこだ歯科

     進学:KCS鹿児島情報専門学校,鹿児島県立短大,京都精華大学,志學館大学

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     次の出番の発表者は,放送室前で,原稿を見直し,読む練習をしています。

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     他の生徒は各教室で,放送を聞いて,メモを取ったり,感想を書いたりします。以下,生徒の感想から抜粋します。

     就職でも,進学でも小論文や面接が難しく,大事なことが改めて分かりました。また発表された先輩方はみんな自分の進路についてすごく調べられていて,先生にまかせっきりの自分が恥ずかしくなってきました。自分の進路についてよく考えるように心がけたいです。(2年男子)

     1年後,自分たちが進学就職に向けて頑張っている姿が想像できない。けれど,やばいなーという実感だけはある。そろそろ真剣に向き合うべきだと思っている。今自分にできることは何か。自分に必要なものは何か考えるべき。遅刻や欠席をなるべくしないように,体調管理にも気を付けたい。(2年女子)

     受験をして,たくさんの事を学んだ先輩から進路に向けてどう進めばいいか。今できる事は何かを知れて良かった。私も今年は受験なので先輩たちから言われた事を活かして頑張っていきたい。(2年女子)

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     1年生の様子。

     将来の自分の就職を分析していたのがすごかった。受ける会社の下調べなどしっかりしていた。遅刻,欠席が1番ダメらしい。ふだんのみだしなみ,しぐさが大切。日頃の所作のくせが出る。(1年女子)

     自分の好きなことを一番に考えた。親からも条件で関西の大学について調べた。ボランティアに参加する。「人生がかかっている」と自分で自分にプレッシャーをかけてた。先のことを考えて,早いうちに行動する。(1年女子)

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     以下,進路体験の内容をいくつか抜粋して紹介します。

    そもそも自分に合った仕事がわからなかったため,求人票が届いてから両親に相談しました。(中略)中でも私が特に苦労したのは履歴書書きでした。(中略)不測の事態に備えて今できることを一つ一つ丁寧に頑張ってほしいです。面接練習は本当に数をこなして慣れるしか上達の道はないと思います。

    夏休みからは面接に向けて,入退室の仕方,礼の角度や座り方,質問の返し方の練習をしました。太ももがつりそうになったりできない自分に悔しくて泣きそうになることもありました。また志望動機や自己アピールがスラスラかまずに言えるためには,もちろん受ける会社をすべて調べつくし,どんな質問が来ても答えられるようにしなければいけません。(中略)所作は,普段の態度が出やすいので常日頃から意識しておくと良いと思います。

    ・(自己PRのために)ホテル短期大学校のオープンキャンパスや城山ホテル鹿児島の職場見学等に行ったり,ホテルは語学が有利だと思い,中国語のスピーチコンテストにも出場しました。(中略)接客業なので面接に力を入れました。(中略)初めてのことが多く何も決まっていなくて焦るかと思いますが,先生方が必ず助けてくれます。

    やはり何事も自分の目で確かめることが大切だと改めて思いました。悩むより先に行動しようと思い,たくさんの求人票を見て,いろいろな企業について調べました。先生に褒めていただいたときには,努力が力になっていることを実感することができて,とっても嬉しかったし,本番まで毎日頑張ろうと明るい気持ちになりました。自分を信じて本番に向けてひたすら準備をしていたら大丈夫です。そして,一人で悩まずに周りの力を求めることも大切です。

    私は,高校三年の一学期まで,進学するか,就職するか明確に決まっていませんでした。けれども,教養コースで,パソコンを活用したり,簿記などの商業科目を学んだりしていくうちに,もっと知識や技術を身に着けたいと思うようになりました。

    私が,受験や,これからのことで大切だと感じたのは,先のことを考えて,今動くことということです。やって後悔することはないと思います。学生の私たちが一番最初にやっておくことは,成績を上げることです。

     その他,共通しているのは,遅刻欠席をしない。授業態度に気を付ける。提出物をしっかり出して,成績を上げる努力をする。資格取得やボランティアなど積極的にチャレンジ・参加して,自己PRや面接の際の材料作りをした方が良い。早めに進路希望を決めて,準備をしっかりするということでした。

      1・2年生は,特に2年生はこれから自分たちの番です。先輩たちの進路体験やアドバイスを参考に自分の進路実現に向けて頑張りましょう。

     

2022年1月29日

2022年1月23日

2022年1月21日

  • 2022年01月21日(金)

    課題研究発表会です!!

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     本日3年生が1年間かけて調べてきた課題研究の発表会です。途中新型コロナの影響で十分な活動時間が取れませんでしたが,6グループ各班ともテーマ設定をして,調べてきました。

    1:「事務・情報・公務員」班 「一般事務」・「公務員・プログラマについて」

    2:「経済」班 「各国の経済のさせ方」・「コロナ禍でのオンライン授業の違いと学費の変化」

    3:「販売」班 「コンビニについて」・「CAについて」

    4:「製造」班 調味料の「さしすせそ」の製造について

    5:「美容・ファッション」班 「メイクの変遷(昭和から令和まで)」

    6:「芸術・児童・看護」班 「コロナ禍による社会への影響」

     今回は昨年度同様リモートで行いました。各班の班長・副班長で係分担をして,生徒自身で運営します。司会,日程・評価規定説明,計時,パソコン操作,集計です。

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     司会の様子です。

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     日程・評価規定説明をしています。

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     1番手は,「事務・情報・公務員」班 です。「一般事務」・「公務員・プログラマについて」発表します 。

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     他の生徒は各教室で視聴します。

     しかし,途中でハプニング発生。ズームによるリモートが出来なくなりました。そこで急きょ校内放送に切り替えです。

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     途中ハプニングに見舞われましたが,生徒達は落ち着いて,活動の成果を発表できました。

     最後教頭先生から講評をいただきました。

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     みんなで協力しながら,発表会を成功させました。3年生は来週に卒業考査,,再来週には進路体験発表会があります。卒業まであとわずか。残りの学校生活を楽しんでください。

2022年1月15日

  • 2022年01月15日(土)

    校歌の研究 その41(完結) ~鹿児島玉龍中学校

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    1.南の空晴れ渡り 黒潮のたゆたふところ 火の島の煙仰げば 鉄の意気は燃えたつ ああ潑剌の若き玉龍 2.蛟龍の玉をふみつつ 雨を呼び風をはらみ  舞ひのぼる雲を仰げば 天を衝く力みなぎる ああ躍進の若き玉龍 3.荊棘の試練に耐えて うちたてる文化のあした 旭日の光仰げば 青雲の希望はをどる ああ玲瓏の若き玉龍

     鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校は、昭和15(1940)年鹿児島市立中学校(旧制中学)として開校、25年に鹿児島県玉龍高等学校となり、32年鹿児島市立化しました。平成18(2006)年に鹿児島玉龍中学校が併設され、市内唯一の市立中高一貫校となりました。
     校名の由来は当校所在地にあった福昌寺の山号「玉龍山」によるものです。福昌寺は南北朝時代の伊集院に生まれた石屋真梁(せきおくしんりょう)という曹洞宗のお坊さんによって作られたお寺で、代々島津氏の菩提寺となり、現在も玉龍高校の裏手に福昌寺墓地という島津氏のお墓があります。石屋は他に伊集院の「妙円寺詣り」で有名な妙円寺や、しんこ団子発祥の深固院(日吉町)も作っています。
     校歌制定年は不明ですが、25~27年頃(玉龍高校創設後~作曲担当の杉山氏逝去)に作られたのではと思われます。市立中学校歌ではないので、本コラムの趣旨と合致しませんが、40番目の校歌として考えてみたいと思います。作詞は前田重行、作曲は杉山長谷夫です。
     ウィキペディアによると、作曲担当の杉山氏は、本名杉山直樹で、明治22(1889)年に愛知県名古屋市に生まれました。日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者です。大正2(1913)年東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケルらにヴァイオリンや作曲を師事しました。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永らと室内楽運動を展開し、暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えました。作曲家としては本領であるヴァイオリン曲のほか、軍歌、歌曲、歌謡曲、童謡も手がけ、抒情画家・蕗谷虹児の作詞による、花嫁になる女性の哀感を情緒的に表現した童謡『花嫁人形』は少女たちに広く愛唱されたそうです。歌謡曲では自ら見出した詩人・勝田香月の詩、オペラ歌手・藤原義江の歌唱によって別れの寂しさを表現した『出船』がヒットしました。多作であり、SPレコードの録音だけでも百数十曲の作品が確認できます。戦後は日本作曲家協会理事、日本音楽著作権協会理事などを歴任。酒を好み、貴公子然とした風格を持ち、軽妙洒脱でユーモアをたっぷり含んだ語り口と人柄で「殿下」の愛称で親しまれたそうです。当校校歌の他、早稲田大学応援歌、静岡県立富士高校や千葉市立小中台中学校などの校歌を担当されたようです。昭和27(1952)年に62歳で亡くなりました。
     玉龍高校同窓会HPによると、校歌は全国から公募したとあります。また前田氏は隼人中学校校歌も作詞しているようです。両校の歌詞を比べてその特徴を考えてみます。共通するワードは、黒潮、桜島(当校は火の島と表現します)、意気は燃え立つ、はつらつ(当校では潑剌と漢字表記)、力みなぎる、躍進、試練、文化、旭日、青雲、希望です。当校は高校校歌のため表現も漢語を多用し、難しいですが、内容的には生徒を主体にして「若さ」のイメージを大事にしているようです。
     さて歌詞について。高校校歌ということもあり、難しい表現が多く見られます。全体的には校名の龍にちなんだイメージや表現を使っているようです。特に2番の「蛟龍」は、水中にすむとされる中国古代の想像上の動物で、水中にすむ蛟龍は雲や雨を得ればそれに乗って天に昇り龍になるといわれることから、能力を発揮する機会の無かった英雄や豪傑が、機会を得て能力を発揮することのたとえとされるそうです。3番の「荊棘(けいきょく)」は荊、棘ともにいばらの意味で、困難や障害があることのたとえです。「玲瓏」は、玲も瓏も、どちらも「玉や金属、宝石などがお互い触れることで鳴る美しい音」を表す言葉であり、「玲瓏」でさらに意味を強め、玉や宝石などが美しく輝き、冴え冴えするような音を奏でる様子を指しているそうです。校名の龍の字が入っている熟語を採用し、かつ生徒の切磋琢磨するイメージを重ね合わせているのではと思います。

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    玉龍中地図

     以上で,市内40中の公立中学校全ての校歌を考えることが出来ました。

     校歌は学校周辺の風景、学校の教育方針や理想を歌い、校風を醸成するために制定されたものです。校歌を通じてその学校における生活環境を考えることは、郷土理解、郷土愛を育むことにつながるのではと考え、鹿児島市内の公立中学40校の校歌について調べてみました。
     戦後スタートした新制中学は、番号を冠した9つの中学を皮切りに、市町村合併による市立化、特に70年代の第2次ベビーブームによる生徒数急増に伴う市の小中学校整備計画により、続々新設されました。
     この研究を通じて、学校周辺の地理的環境、戦後の県の国語・音楽教育界やそれをリードした人物、地域の歴史、何よりも学校創設当初の時代の雰囲気や気風を知ることが出来ました。
     また南日本新聞連載の「校歌の風景」やひろば欄に時折寄せられる校歌についての投稿を読むと、在校生や教職員、卒業生の母校への深い思いを改めて感じることが出来ました。

  • 2022年01月15日(土)

    校歌の研究 その40 ~伊敷台中学校

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    1.昇る朝日のさやけきに 高くそびえし学び舎は 集う若人自主のもと 理想をかかげ明日拓く ああ進み行く伊敷台中学 2.空青々となお深く 水また清き甲突に 学ぶ若人友愛の 胸熱くして肩をくむ ああたくましき伊敷台中学 3.はるかに望む桜島 緑の大地希望わく いさむ若人ふるさとを 興すは我ら意気盛ん ああ我が母校伊敷台中学

     伊敷台中学校は、平成4(1992)年に坂元中・伊敷中学校から分離して、鹿児島市立伊敷台中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は職員一同、作曲は職員一同、久保禎(ただし)監修です。

    久保禎 ←久保禎氏です。
     ウィキペディアによると、久保氏は日本の現代音楽作曲家で、鹿児島国際大学国際文化学部教授だそうです。昭和37(1962)年鹿屋市生まれ。東京学芸大学卒業、同大学院修了。ベルギー王立ブリュッセル音楽院修士課程。作曲を仲俣申喜男、吉崎清富、ヤン・ヴァン・ランデゲムに師事。在学中吉崎清富らと作曲家グループ「パッケージ21」、ヲノサトルらと音楽確信犯会議を結成し、作品発表を行う。第1回日仏現代音楽作曲コンクール特別賞、東京国際ギター作品作曲コンクール入賞等受賞。その他国内外の多数の音楽祭に招待され出演されてきました。東アジア作曲家協会日本支部委員。日本作曲家協議会、日本現代音楽協会各会員。九州・沖縄作曲家協会理事等歴任されています。

     さて歌詞について。2番に甲突川、3番に桜島を詠み、1番自主、2番友愛、3番希望と定番のテーマを歌い込めます。
     1番にある「さやけき(明けき・清けき)に」は光が冴えて明るい、澄んで、清らか、すがすがしい等を意味する古語です。ここでは朝日が冴えて明るく清々しい様子でしょうか。続いて「高くそびえし学び舎」とあり、高台にある校舎を歌っています。3番では「はるかに望む桜島」に「緑の大地」と続けて、桜島を希望の象徴として捉え、郷土振興を歌い上げており、とても気持ちの良い歌に仕上げています。

    伊敷台地図

2022年1月14日

  • 2022年01月14日(金)

    心理教室です!!

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     本日1年生は,6限目のライフクリエイト(総合的な探究の時間)で,「心理教室」を行いました。テーマは「心のからくり~5つの状態をもとに友人関係をとらえる~」です。

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      講師の方(向かって左側)は,スクールカウンセラーの冨田惠子先生です。

     はじめに講師の先生から、エゴグラム・チェックリスト(心理テスト)の説明があり,そのあと担任の先生方で,簡単なロールプレイがありました。

  • 2022年01月14日(金)

    ライフクリエイト発表会のリハです!!

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     本日5、6限に本校大ゼミで、総合的な探究の時間(ライフクリエイト)の、課題研発表会のリハを行いました。

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     司会進行、パソコン操作、タイムキーパーなど生徒自身が行います。

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     事務・情報・公務員班の発表です。事務の仕事内容、必要な資格などをまとめて発表します。

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     販売班です。「コンビニについて」「キャビンアテンダントについて」という2つの内容について発表します。写真は主要コンビニの分布図について。

     その他合計6班が発表します。本番では昨年度同様リモートでの実施になりますが,今回は大ゼミで3年生だけのリハです。スライドの文字の大きさとか,話し方のスピードや声の大きさなど改良して次に生かしたいと思います。

  • 2022年01月14日(金)

    校歌の研究 その39 ~皇徳寺中学校

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    皇徳寺1

    1.緑の風に 敬愛の ブルーベリーの 道静か 手を結び合い 若人の ああ 皇徳寺中学校 平和あふれて 友多し 2.歴史の里に いま自主の 泉湧き出る 永田川 体を鍛え 若人の ああ 皇徳寺中学校 文化あふれて 幸多し 3.瞳も燃えて 向学の 翔び立つ空に 桜島 未来を見つめ 若人の ああ 皇徳寺中学校 光あふれて 夢多し

     皇徳寺中学校は、平成2(1990)年に谷山北中学校から分離して、鹿児島市立皇徳寺中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は橋口義心、作曲は兼廣晨史です。
     兼廣氏については西陵中のところで紹介しました。橋口氏についてはよく分かりませんが、田代小(川辺)22代校長(1984-88)・平川小30代校長(1988-1990)をされています。縁あって作詞を担当されたのでしょうか。

     さて歌詞について。1番に「ブルーベリーの道」とあります。これは1980年代に皇徳寺台を建設していた南国地所によって数百本のブルーベリーが植樹されていたことにちなむもので、「ブルーベリーロード」と呼ばれる 2.5kmの歩行者専用道路のことだそうです。とても斬新で爽やかな歌詞です。

    ブルーベリーロード

     2番には永田川、3番には桜島と定番の景観を詠み込みます。2番に「歴史の里」とあるのは、地名の由来となった「皇徳寺」にちなむものと思われます。皇徳寺は元皇立寺といい、南北朝時代の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)が薩摩に来たときに作られたお寺で、親王が亡くなったあと、地元の谷山氏が現地に移して皇徳寺と改称したそうです。

    皇徳寺地図

2022年1月12日

  • 2022年01月12日(水)

    課題研究発表会のリハのリハです!!

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     今日は,3年生がパソコン室で,今月21日にある「ライフクリエイト(本校の総合的な探究の時間)の課題研究発表会」の準備をしていました。1学期からグループ分けをして,各班のテーマを決め,それぞれのグループで取り組んできました。昨年度に引き続き,今年も新型コロナウイルスの影響で,十分な時間を取れませんでしたが,各グループとも熱心に調べています。

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     スクリーンに実際映してみて,発表の練習をします。

     各班のテーマです。1班:経済班「「各国の経済のさせ方」と「 コロナ禍でのオンライン授業の違いと学費の変化」」,2班:芸術・児童・看護班「コロナ禍による社会への影響」,3班:美容・ファッション班「メイクの変遷(昭和から令和まで)」,4班:販売班「「コンビニについて」と「CAについて」」,5班:製造班「調味料の「さしすせそ」の製造について」,6班:事務・情報・公務員「「一般事務」と「公務員・プログラム」」です。

  • 2022年01月12日(水)

    校歌の研究 その38 ~武岡中学校

    武岡1

    武岡2

    1.自然の恵み背にうけて 野元が原にそびえ立つ 木の香ただよう学舎に 真理をめざす若人の 自立の歩みたしかなる ああ我が武岡武岡中学校  2.緑の大地踏みしめて 手と手とりあう友垣の 足音高き校庭に よろこび誓う若人の 友愛の華うるわしく ああ我が武岡武岡中学校 3.紫紺の空の陽をあびて かがやく明日の夢を呼ぶ 歌声ひびく塔上に 望みを秘めた若人の 創造の鐘高らかに ああ我が武岡武岡中学校

     武岡中学校は、昭和63(1988)年に明和中学校から分離して、鹿児島市立武岡中学校として創設されました。鹿児島市の中学生数は62年にピークを迎え、 25118人となりました。そういう状況を反映して創設されたようです。校歌制定は同年の63年です。作詞は緒方正文、作曲は有馬俊次です。
     緒方氏についてはよく分かりません。有馬氏は県内中学校の音楽教員で、昭和34(1959)年から46年度まで、宮之城中学校吹奏楽部で指導され、吹奏楽部コンクールに毎年のように参加されたようです。また『コンピュータで楽しい音楽授業をつくる』(2000年)、『音楽教師とIT技術-実力UPの授業ポイント』(2002年)という著作があります。それによると、九州内の教員や音楽関係者が、学校の音楽教育にコンピューターや電子楽器を導入して、もっと楽しく効率的に学習活動ができないものかと試行錯誤していた際に、仲間を集めようと企画され、平成8(1996)年以来「ミュージック・テクノロジー教育セミナーin九州(略称「阿蘇セミナー」)」が開催されることになったそうです。有馬氏は退職後にこのような活動を始めたとのことです。
     さて歌詞について。1番に「野元が原」というローカルな地名がでてきますが、これは南北朝時代の古戦場跡ということです。1354年に、畠山直顕が島津氏の拠点東福寺城(現多賀山)を攻めるために、野元(武岡?武?)と原羅(原良)に布陣しました。島津軍は軍を2つに分け、畠山勢を攻めたとのことです。ここでは畠山軍の多田七郎と島津軍の山田弥九郎の一騎打ちが行われ、原羅合戦の一騎打ちと言われたそうです。歌詞では「野元が原にそびえ立つ木の香ただよう学舎に」とあり、新築したばかりの様子を歌っています。2番で「友愛の華」、3番で「創造の鐘」と校歌によく出てくるフレーズを歌っています。

    武岡中地図

2022年1月11日

  • 2022年01月11日(火)

    始業式です!!

     新年明けましておめでとうございます。

     本日3学期始業式がありました。今回も前回同様リモートでの実施になりました。

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     はじめに校長先生からのお話。

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     1年の計は元旦にあり。大谷翔平選手のマンダラチャートの話。自分を磨く。よりよき関係を築くことが大事との話でした。

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     ついで,生徒指導部からの話。成人年齢が4月から引き下げになるとの話。大人と子どもの違いは,親の同意が必要になるかどうか。飲酒喫煙等は20歳のままだが,契約等について18歳から可能になるところがある。これまでは親の責任の部分が,自分の責任になる。最後いじわる虫の生態のビデオを見ました。

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     ついで進路指導部から。行動力がある人は成功体験を持っている人だ。自信をもち,不安を感じない。そうすると新しいことにチャレンジできる。そのためにどうしたら良いか。1.脳を最高の状態にする。2.新しいことを学んで記憶力アップ。3.睡眠をしっかりとる。4.食事を抜かない。5.ストレッチ,有酸素運動。1・2年生はあす進路希望調査があります。しっかり考えて置くこと。

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     最後保健部から。新型コロナウイルスのオミクロン株について。再度マスク着用等感染対策を徹底しましょう。冬休み期間中の「新型コロナウイルス感染症に関するアンケート」について,LHRの時間に記入すること。

     3学期は,2年生にとっては3年0学期です。進路実現に向けてしっかり準備をしましょう。

     

     

2022年1月10日

  • 2022年01月10日(月)

    校歌の研究 その37 ~西陵中学校

    西陵1

    西陵2

    1.みどりの庭に陽が落ちて 東に映える桜島 友よ学ぼうこの丘で 自律のしらべ高らかに 真理の扉を開くのだ ああ西陵中学われら 2.理想の海へとこしえに 流れて清き田上川 友よ磨こうひとすじに 豊かな心むすびあい かがやく学園創るのだ ああ西陵中学われら 3.歴史の歩みうるわしく 文化のかおるふるさとで 友よ語ろうわが豊富 試練を超えてたくましく 世紀のあしたへ巣立つのだ ああ西陵中学われら

     西陵中学校は、昭和59(1984)年に武中学校から分離して、鹿児島市立西陵中学校として創設されました。校歌制定は翌年の60年です。作詞は内与詩守、作曲は兼廣晨史です。
     作詞担当の内氏について。詳しくは不明でが、県内市民歌等を担当していて、枕崎市民歌、大崎音頭、ふるさと鹿屋音頭、松元お茶音頭、与論町町民歌、鹿屋体育大学学生歌、刈谷市制30周年記念作品「みどりの風に」、その他どういう縁なのか、HOUND DOG の「銀河のささやき」や島倉千代子「おじいさんおばあさんありがとう」の作詞も担当されているようです。
     兼廣氏について。『鹿児島作曲協会創立30周年記念誌』によると、昭和46(1971)年に郡山脩、野崎哲、藤島昌壽(明和中校歌作曲)らと共に、作曲研究グループを結成し、48年に作曲研究会に改称会員20人で発足(代表理事郡山脩)。52年鹿児島作曲協会と改称し現在に至ります。51年郡山氏急逝のため、兼廣氏が引き継ぎ、57年に会長となったそうです。同協会はNPO法人でコンクール等の企画運営、作曲指導、音楽を通じての青少年の健全育成活動等を行うことを目的とする団体です。事業所は姶良市加治木町。兼廣氏は、県内小中校の校歌作曲も担当されています。皇徳寺中、立神中(枕崎市)、西陵小、西原台小(鹿屋市)、武岡音頭(武岡台校区)等です。

     さて歌詞について。1番で「桜島」を詠んでいます。「丘」とあるのは、当校HPに「標高100mの高台にありゆるやかな丘陵地帯」とあり、学校所在地のことを指しています。2番には田上川を詠み、3番には「歴史の歩みうるわしく文化のかおるふるさとで」と地域の歴史環境に触れています。具体的には出てきていませんが、近くに「西郷南州野屋敷の跡」があり、HPに「ここはその昔、西郷隆盛が、愛犬を連れて猟を楽しんだゆかりの地」とあるので、このことを指しているかと思います。ちなみに西陵なのに周辺の団地を、西郷団地と呼ぶのはこのためです。

    西陵中地図

     この図を見ると、中学校密集地域で、団地と中学校区の関係がよく分かります。西陵中校区は、田上川(下流域は新川)と脇田川に挟まれた高台の丘陵地域だと分かります。