記事
2022年2月1日
2022年02月01日(火)
進路体験発表会です!!
1月31日(月)6限に進路体験発表会がありました。
今回は,新型コロナの影響で,校内放送での実施となりました。
進学4人・就職4人の計8人の3年生が,それぞれの体験をもとにして,準備・受験・これからの心構え等について語ってくれました。
就職:モロゾフ(株),(株)美創産業,城山観光(株),さこだ歯科
進学:KCS鹿児島情報専門学校,鹿児島県立短大,京都精華大学,志學館大学
次の出番の発表者は,放送室前で,原稿を見直し,読む練習をしています。
他の生徒は各教室で,放送を聞いて,メモを取ったり,感想を書いたりします。以下,生徒の感想から抜粋します。
就職でも,進学でも小論文や面接が難しく,大事なことが改めて分かりました。また発表された先輩方はみんな自分の進路についてすごく調べられていて,先生にまかせっきりの自分が恥ずかしくなってきました。自分の進路についてよく考えるように心がけたいです。(2年男子)
1年後,自分たちが進学就職に向けて頑張っている姿が想像できない。けれど,やばいなーという実感だけはある。そろそろ真剣に向き合うべきだと思っている。今自分にできることは何か。自分に必要なものは何か考えるべき。遅刻や欠席をなるべくしないように,体調管理にも気を付けたい。(2年女子)
受験をして,たくさんの事を学んだ先輩から進路に向けてどう進めばいいか。今できる事は何かを知れて良かった。私も今年は受験なので先輩たちから言われた事を活かして頑張っていきたい。(2年女子)
1年生の様子。
将来の自分の就職を分析していたのがすごかった。受ける会社の下調べなどしっかりしていた。遅刻,欠席が1番ダメらしい。ふだんのみだしなみ,しぐさが大切。日頃の所作のくせが出る。(1年女子)
自分の好きなことを一番に考えた。親からも条件で関西の大学について調べた。ボランティアに参加する。「人生がかかっている」と自分で自分にプレッシャーをかけてた。先のことを考えて,早いうちに行動する。(1年女子)
以下,進路体験の内容をいくつか抜粋して紹介します。
・そもそも自分に合った仕事がわからなかったため,求人票が届いてから両親に相談しました。(中略)中でも私が特に苦労したのは履歴書書きでした。(中略)不測の事態に備えて今できることを一つ一つ丁寧に頑張ってほしいです。面接練習は本当に数をこなして慣れるしか上達の道はないと思います。
・夏休みからは面接に向けて,入退室の仕方,礼の角度や座り方,質問の返し方の練習をしました。太ももがつりそうになったりできない自分に悔しくて泣きそうになることもありました。また志望動機や自己アピールがスラスラかまずに言えるためには,もちろん受ける会社をすべて調べつくし,どんな質問が来ても答えられるようにしなければいけません。(中略)所作は,普段の態度が出やすいので常日頃から意識しておくと良いと思います。
・(自己PRのために)ホテル短期大学校のオープンキャンパスや城山ホテル鹿児島の職場見学等に行ったり,ホテルは語学が有利だと思い,中国語のスピーチコンテストにも出場しました。(中略)接客業なので面接に力を入れました。(中略)初めてのことが多く何も決まっていなくて焦るかと思いますが,先生方が必ず助けてくれます。
・やはり何事も自分の目で確かめることが大切だと改めて思いました。悩むより先に行動しようと思い,たくさんの求人票を見て,いろいろな企業について調べました。先生に褒めていただいたときには,努力が力になっていることを実感することができて,とっても嬉しかったし,本番まで毎日頑張ろうと明るい気持ちになりました。自分を信じて本番に向けてひたすら準備をしていたら大丈夫です。そして,一人で悩まずに周りの力を求めることも大切です。
・私は,高校三年の一学期まで,進学するか,就職するか明確に決まっていませんでした。けれども,教養コースで,パソコンを活用したり,簿記などの商業科目を学んだりしていくうちに,もっと知識や技術を身に着けたいと思うようになりました。
・私が,受験や,これからのことで大切だと感じたのは,先のことを考えて,今動くことということです。やって後悔することはないと思います。学生の私たちが一番最初にやっておくことは,成績を上げることです。
その他,共通しているのは,遅刻欠席をしない。授業態度に気を付ける。提出物をしっかり出して,成績を上げる努力をする。資格取得やボランティアなど積極的にチャレンジ・参加して,自己PRや面接の際の材料作りをした方が良い。早めに進路希望を決めて,準備をしっかりするということでした。
1・2年生は,特に2年生はこれから自分たちの番です。先輩たちの進路体験やアドバイスを参考に自分の進路実現に向けて頑張りましょう。
2022年1月29日
2022年01月29日(土)
日本史おすすめ本 その23
今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。
2022年1月23日
2022年01月23日(日)
日本史おすすめ本 その22
今後は,その折々で,日本史にまつわる本を紹介していきたいと思います。
2022年1月21日
2022年01月21日(金)
課題研究発表会です!!
本日3年生が1年間かけて調べてきた課題研究の発表会です。途中新型コロナの影響で十分な活動時間が取れませんでしたが,6グループ各班ともテーマ設定をして,調べてきました。
1:「事務・情報・公務員」班 「一般事務」・「公務員・プログラマについて」
2:「経済」班 「各国の経済のさせ方」・「コロナ禍でのオンライン授業の違いと学費の変化」
3:「販売」班 「コンビニについて」・「CAについて」
4:「製造」班 調味料の「さしすせそ」の製造について
5:「美容・ファッション」班 「メイクの変遷(昭和から令和まで)」
6:「芸術・児童・看護」班 「コロナ禍による社会への影響」
今回は昨年度同様リモートで行いました。各班の班長・副班長で係分担をして,生徒自身で運営します。司会,日程・評価規定説明,計時,パソコン操作,集計です。
司会の様子です。
日程・評価規定説明をしています。
1番手は,「事務・情報・公務員」班 です。「一般事務」・「公務員・プログラマについて」発表します 。
他の生徒は各教室で視聴します。
しかし,途中でハプニング発生。ズームによるリモートが出来なくなりました。そこで急きょ校内放送に切り替えです。
途中ハプニングに見舞われましたが,生徒達は落ち着いて,活動の成果を発表できました。
最後教頭先生から講評をいただきました。
みんなで協力しながら,発表会を成功させました。3年生は来週に卒業考査,,再来週には進路体験発表会があります。卒業まであとわずか。残りの学校生活を楽しんでください。
2022年1月15日
2022年01月15日(土)
校歌の研究 その41(完結) ~鹿児島玉龍中学校
1.南の空晴れ渡り 黒潮のたゆたふところ 火の島の煙仰げば 鉄の意気は燃えたつ ああ潑剌の若き玉龍 2.蛟龍の玉をふみつつ 雨を呼び風をはらみ 舞ひのぼる雲を仰げば 天を衝く力みなぎる ああ躍進の若き玉龍 3.荊棘の試練に耐えて うちたてる文化のあした 旭日の光仰げば 青雲の希望はをどる ああ玲瓏の若き玉龍 鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校は、昭和15(1940)年鹿児島市立中学校(旧制中学)として開校、25年に鹿児島県玉龍高等学校となり、32年鹿児島市立化しました。平成18(2006)年に鹿児島玉龍中学校が併設され、市内唯一の市立中高一貫校となりました。
校名の由来は当校所在地にあった福昌寺の山号「玉龍山」によるものです。福昌寺は南北朝時代の伊集院に生まれた石屋真梁(せきおくしんりょう)という曹洞宗のお坊さんによって作られたお寺で、代々島津氏の菩提寺となり、現在も玉龍高校の裏手に福昌寺墓地という島津氏のお墓があります。石屋は他に伊集院の「妙円寺詣り」で有名な妙円寺や、しんこ団子発祥の深固院(日吉町)も作っています。
校歌制定年は不明ですが、25~27年頃(玉龍高校創設後~作曲担当の杉山氏逝去)に作られたのではと思われます。市立中学校歌ではないので、本コラムの趣旨と合致しませんが、40番目の校歌として考えてみたいと思います。作詞は前田重行、作曲は杉山長谷夫です。
ウィキペディアによると、作曲担当の杉山氏は、本名杉山直樹で、明治22(1889)年に愛知県名古屋市に生まれました。日本の作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教育者、指揮者です。大正2(1913)年東京音楽学校器楽科卒業。安藤幸、アウグスト・ユンケルらにヴァイオリンや作曲を師事しました。東京音楽学校を卒業後はヴァイオリン奏者として活躍し、高階哲夫、多基永らと室内楽運動を展開し、暁星中学校、俳優学校、陸軍戸山学校などで音楽を教えました。作曲家としては本領であるヴァイオリン曲のほか、軍歌、歌曲、歌謡曲、童謡も手がけ、抒情画家・蕗谷虹児の作詞による、花嫁になる女性の哀感を情緒的に表現した童謡『花嫁人形』は少女たちに広く愛唱されたそうです。歌謡曲では自ら見出した詩人・勝田香月の詩、オペラ歌手・藤原義江の歌唱によって別れの寂しさを表現した『出船』がヒットしました。多作であり、SPレコードの録音だけでも百数十曲の作品が確認できます。戦後は日本作曲家協会理事、日本音楽著作権協会理事などを歴任。酒を好み、貴公子然とした風格を持ち、軽妙洒脱でユーモアをたっぷり含んだ語り口と人柄で「殿下」の愛称で親しまれたそうです。当校校歌の他、早稲田大学応援歌、静岡県立富士高校や千葉市立小中台中学校などの校歌を担当されたようです。昭和27(1952)年に62歳で亡くなりました。
玉龍高校同窓会HPによると、校歌は全国から公募したとあります。また前田氏は隼人中学校校歌も作詞しているようです。両校の歌詞を比べてその特徴を考えてみます。共通するワードは、黒潮、桜島(当校は火の島と表現します)、意気は燃え立つ、はつらつ(当校では潑剌と漢字表記)、力みなぎる、躍進、試練、文化、旭日、青雲、希望です。当校は高校校歌のため表現も漢語を多用し、難しいですが、内容的には生徒を主体にして「若さ」のイメージを大事にしているようです。
さて歌詞について。高校校歌ということもあり、難しい表現が多く見られます。全体的には校名の龍にちなんだイメージや表現を使っているようです。特に2番の「蛟龍」は、水中にすむとされる中国古代の想像上の動物で、水中にすむ蛟龍は雲や雨を得ればそれに乗って天に昇り龍になるといわれることから、能力を発揮する機会の無かった英雄や豪傑が、機会を得て能力を発揮することのたとえとされるそうです。3番の「荊棘(けいきょく)」は荊、棘ともにいばらの意味で、困難や障害があることのたとえです。「玲瓏」は、玲も瓏も、どちらも「玉や金属、宝石などがお互い触れることで鳴る美しい音」を表す言葉であり、「玲瓏」でさらに意味を強め、玉や宝石などが美しく輝き、冴え冴えするような音を奏でる様子を指しているそうです。校名の龍の字が入っている熟語を採用し、かつ生徒の切磋琢磨するイメージを重ね合わせているのではと思います。以上で,市内40中の公立中学校全ての校歌を考えることが出来ました。
校歌は学校周辺の風景、学校の教育方針や理想を歌い、校風を醸成するために制定されたものです。校歌を通じてその学校における生活環境を考えることは、郷土理解、郷土愛を育むことにつながるのではと考え、鹿児島市内の公立中学40校の校歌について調べてみました。
戦後スタートした新制中学は、番号を冠した9つの中学を皮切りに、市町村合併による市立化、特に70年代の第2次ベビーブームによる生徒数急増に伴う市の小中学校整備計画により、続々新設されました。
この研究を通じて、学校周辺の地理的環境、戦後の県の国語・音楽教育界やそれをリードした人物、地域の歴史、何よりも学校創設当初の時代の雰囲気や気風を知ることが出来ました。
また南日本新聞連載の「校歌の風景」やひろば欄に時折寄せられる校歌についての投稿を読むと、在校生や教職員、卒業生の母校への深い思いを改めて感じることが出来ました。2022年01月15日(土)
校歌の研究 その40 ~伊敷台中学校
1.昇る朝日のさやけきに 高くそびえし学び舎は 集う若人自主のもと 理想をかかげ明日拓く ああ進み行く伊敷台中学 2.空青々となお深く 水また清き甲突に 学ぶ若人友愛の 胸熱くして肩をくむ ああたくましき伊敷台中学 3.はるかに望む桜島 緑の大地希望わく いさむ若人ふるさとを 興すは我ら意気盛ん ああ我が母校伊敷台中学 伊敷台中学校は、平成4(1992)年に坂元中・伊敷中学校から分離して、鹿児島市立伊敷台中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は職員一同、作曲は職員一同、久保禎(ただし)監修です。
←久保禎氏です。
ウィキペディアによると、久保氏は日本の現代音楽作曲家で、鹿児島国際大学国際文化学部教授だそうです。昭和37(1962)年鹿屋市生まれ。東京学芸大学卒業、同大学院修了。ベルギー王立ブリュッセル音楽院修士課程。作曲を仲俣申喜男、吉崎清富、ヤン・ヴァン・ランデゲムに師事。在学中吉崎清富らと作曲家グループ「パッケージ21」、ヲノサトルらと音楽確信犯会議を結成し、作品発表を行う。第1回日仏現代音楽作曲コンクール特別賞、東京国際ギター作品作曲コンクール入賞等受賞。その他国内外の多数の音楽祭に招待され出演されてきました。東アジア作曲家協会日本支部委員。日本作曲家協議会、日本現代音楽協会各会員。九州・沖縄作曲家協会理事等歴任されています。さて歌詞について。2番に甲突川、3番に桜島を詠み、1番自主、2番友愛、3番希望と定番のテーマを歌い込めます。
1番にある「さやけき(明けき・清けき)に」は光が冴えて明るい、澄んで、清らか、すがすがしい等を意味する古語です。ここでは朝日が冴えて明るく清々しい様子でしょうか。続いて「高くそびえし学び舎」とあり、高台にある校舎を歌っています。3番では「はるかに望む桜島」に「緑の大地」と続けて、桜島を希望の象徴として捉え、郷土振興を歌い上げており、とても気持ちの良い歌に仕上げています。
2022年1月14日
2022年01月14日(金)
心理教室です!!
本日1年生は,6限目のライフクリエイト(総合的な探究の時間)で,「心理教室」を行いました。テーマは「心のからくり~5つの状態をもとに友人関係をとらえる~」です。
講師の方(向かって左側)は,スクールカウンセラーの冨田惠子先生です。
はじめに講師の先生から、エゴグラム・チェックリスト(心理テスト)の説明があり,そのあと担任の先生方で,簡単なロールプレイがありました。
2022年01月14日(金)
ライフクリエイト発表会のリハです!!
本日5、6限に本校大ゼミで、総合的な探究の時間(ライフクリエイト)の、課題研発表会のリハを行いました。
司会進行、パソコン操作、タイムキーパーなど生徒自身が行います。
事務・情報・公務員班の発表です。事務の仕事内容、必要な資格などをまとめて発表します。
販売班です。「コンビニについて」「キャビンアテンダントについて」という2つの内容について発表します。写真は主要コンビニの分布図について。
その他合計6班が発表します。本番では昨年度同様リモートでの実施になりますが,今回は大ゼミで3年生だけのリハです。スライドの文字の大きさとか,話し方のスピードや声の大きさなど改良して次に生かしたいと思います。
2022年01月14日(金)
校歌の研究 その39 ~皇徳寺中学校
1.緑の風に 敬愛の ブルーベリーの 道静か 手を結び合い 若人の ああ 皇徳寺中学校 平和あふれて 友多し 2.歴史の里に いま自主の 泉湧き出る 永田川 体を鍛え 若人の ああ 皇徳寺中学校 文化あふれて 幸多し 3.瞳も燃えて 向学の 翔び立つ空に 桜島 未来を見つめ 若人の ああ 皇徳寺中学校 光あふれて 夢多し 皇徳寺中学校は、平成2(1990)年に谷山北中学校から分離して、鹿児島市立皇徳寺中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は橋口義心、作曲は兼廣晨史です。
兼廣氏については西陵中のところで紹介しました。橋口氏についてはよく分かりませんが、田代小(川辺)22代校長(1984-88)・平川小30代校長(1988-1990)をされています。縁あって作詞を担当されたのでしょうか。さて歌詞について。1番に「ブルーベリーの道」とあります。これは1980年代に皇徳寺台を建設していた南国地所によって数百本のブルーベリーが植樹されていたことにちなむもので、「ブルーベリーロード」と呼ばれる 2.5kmの歩行者専用道路のことだそうです。とても斬新で爽やかな歌詞です。
2番には永田川、3番には桜島と定番の景観を詠み込みます。2番に「歴史の里」とあるのは、地名の由来となった「皇徳寺」にちなむものと思われます。皇徳寺は元皇立寺といい、南北朝時代の懐良親王(後醍醐天皇の皇子)が薩摩に来たときに作られたお寺で、親王が亡くなったあと、地元の谷山氏が現地に移して皇徳寺と改称したそうです。
2022年1月12日
2022年01月12日(水)
課題研究発表会のリハのリハです!!
今日は,3年生がパソコン室で,今月21日にある「ライフクリエイト(本校の総合的な探究の時間)の課題研究発表会」の準備をしていました。1学期からグループ分けをして,各班のテーマを決め,それぞれのグループで取り組んできました。昨年度に引き続き,今年も新型コロナウイルスの影響で,十分な時間を取れませんでしたが,各グループとも熱心に調べています。
スクリーンに実際映してみて,発表の練習をします。
各班のテーマです。1班:経済班「「各国の経済のさせ方」と「 コロナ禍でのオンライン授業の違いと学費の変化」」,2班:芸術・児童・看護班「コロナ禍による社会への影響」,3班:美容・ファッション班「メイクの変遷(昭和から令和まで)」,4班:販売班「「コンビニについて」と「CAについて」」,5班:製造班「調味料の「さしすせそ」の製造について」,6班:事務・情報・公務員「「一般事務」と「公務員・プログラム」」です。
2022年01月12日(水)
校歌の研究 その38 ~武岡中学校
1.自然の恵み背にうけて 野元が原にそびえ立つ 木の香ただよう学舎に 真理をめざす若人の 自立の歩みたしかなる ああ我が武岡武岡中学校 2.緑の大地踏みしめて 手と手とりあう友垣の 足音高き校庭に よろこび誓う若人の 友愛の華うるわしく ああ我が武岡武岡中学校 3.紫紺の空の陽をあびて かがやく明日の夢を呼ぶ 歌声ひびく塔上に 望みを秘めた若人の 創造の鐘高らかに ああ我が武岡武岡中学校 武岡中学校は、昭和63(1988)年に明和中学校から分離して、鹿児島市立武岡中学校として創設されました。鹿児島市の中学生数は62年にピークを迎え、 25118人となりました。そういう状況を反映して創設されたようです。校歌制定は同年の63年です。作詞は緒方正文、作曲は有馬俊次です。
緒方氏についてはよく分かりません。有馬氏は県内中学校の音楽教員で、昭和34(1959)年から46年度まで、宮之城中学校吹奏楽部で指導され、吹奏楽部コンクールに毎年のように参加されたようです。また『コンピュータで楽しい音楽授業をつくる』(2000年)、『音楽教師とIT技術-実力UPの授業ポイント』(2002年)という著作があります。それによると、九州内の教員や音楽関係者が、学校の音楽教育にコンピューターや電子楽器を導入して、もっと楽しく効率的に学習活動ができないものかと試行錯誤していた際に、仲間を集めようと企画され、平成8(1996)年以来「ミュージック・テクノロジー教育セミナーin九州(略称「阿蘇セミナー」)」が開催されることになったそうです。有馬氏は退職後にこのような活動を始めたとのことです。
さて歌詞について。1番に「野元が原」というローカルな地名がでてきますが、これは南北朝時代の古戦場跡ということです。1354年に、畠山直顕が島津氏の拠点東福寺城(現多賀山)を攻めるために、野元(武岡?武?)と原羅(原良)に布陣しました。島津軍は軍を2つに分け、畠山勢を攻めたとのことです。ここでは畠山軍の多田七郎と島津軍の山田弥九郎の一騎打ちが行われ、原羅合戦の一騎打ちと言われたそうです。歌詞では「野元が原にそびえ立つ木の香ただよう学舎に」とあり、新築したばかりの様子を歌っています。2番で「友愛の華」、3番で「創造の鐘」と校歌によく出てくるフレーズを歌っています。
2022年1月11日
2022年01月11日(火)
始業式です!!
新年明けましておめでとうございます。
本日3学期始業式がありました。今回も前回同様リモートでの実施になりました。
はじめに校長先生からのお話。
1年の計は元旦にあり。大谷翔平選手のマンダラチャートの話。自分を磨く。よりよき関係を築くことが大事との話でした。
ついで,生徒指導部からの話。成人年齢が4月から引き下げになるとの話。大人と子どもの違いは,親の同意が必要になるかどうか。飲酒喫煙等は20歳のままだが,契約等について18歳から可能になるところがある。これまでは親の責任の部分が,自分の責任になる。最後いじわる虫の生態のビデオを見ました。
ついで進路指導部から。行動力がある人は成功体験を持っている人だ。自信をもち,不安を感じない。そうすると新しいことにチャレンジできる。そのためにどうしたら良いか。1.脳を最高の状態にする。2.新しいことを学んで記憶力アップ。3.睡眠をしっかりとる。4.食事を抜かない。5.ストレッチ,有酸素運動。1・2年生はあす進路希望調査があります。しっかり考えて置くこと。
最後保健部から。新型コロナウイルスのオミクロン株について。再度マスク着用等感染対策を徹底しましょう。冬休み期間中の「新型コロナウイルス感染症に関するアンケート」について,LHRの時間に記入すること。
3学期は,2年生にとっては3年0学期です。進路実現に向けてしっかり準備をしましょう。
2022年1月10日
2022年01月10日(月)
校歌の研究 その37 ~西陵中学校
1.みどりの庭に陽が落ちて 東に映える桜島 友よ学ぼうこの丘で 自律のしらべ高らかに 真理の扉を開くのだ ああ西陵中学われら 2.理想の海へとこしえに 流れて清き田上川 友よ磨こうひとすじに 豊かな心むすびあい かがやく学園創るのだ ああ西陵中学われら 3.歴史の歩みうるわしく 文化のかおるふるさとで 友よ語ろうわが豊富 試練を超えてたくましく 世紀のあしたへ巣立つのだ ああ西陵中学われら 西陵中学校は、昭和59(1984)年に武中学校から分離して、鹿児島市立西陵中学校として創設されました。校歌制定は翌年の60年です。作詞は内与詩守、作曲は兼廣晨史です。
作詞担当の内氏について。詳しくは不明でが、県内市民歌等を担当していて、枕崎市民歌、大崎音頭、ふるさと鹿屋音頭、松元お茶音頭、与論町町民歌、鹿屋体育大学学生歌、刈谷市制30周年記念作品「みどりの風に」、その他どういう縁なのか、HOUND DOG の「銀河のささやき」や島倉千代子「おじいさんおばあさんありがとう」の作詞も担当されているようです。
兼廣氏について。『鹿児島作曲協会創立30周年記念誌』によると、昭和46(1971)年に郡山脩、野崎哲、藤島昌壽(明和中校歌作曲)らと共に、作曲研究グループを結成し、48年に作曲研究会に改称会員20人で発足(代表理事郡山脩)。52年鹿児島作曲協会と改称し現在に至ります。51年郡山氏急逝のため、兼廣氏が引き継ぎ、57年に会長となったそうです。同協会はNPO法人でコンクール等の企画運営、作曲指導、音楽を通じての青少年の健全育成活動等を行うことを目的とする団体です。事業所は姶良市加治木町。兼廣氏は、県内小中校の校歌作曲も担当されています。皇徳寺中、立神中(枕崎市)、西陵小、西原台小(鹿屋市)、武岡音頭(武岡台校区)等です。さて歌詞について。1番で「桜島」を詠んでいます。「丘」とあるのは、当校HPに「標高100mの高台にありゆるやかな丘陵地帯」とあり、学校所在地のことを指しています。2番には田上川を詠み、3番には「歴史の歩みうるわしく文化のかおるふるさとで」と地域の歴史環境に触れています。具体的には出てきていませんが、近くに「西郷南州野屋敷の跡」があり、HPに「ここはその昔、西郷隆盛が、愛犬を連れて猟を楽しんだゆかりの地」とあるので、このことを指しているかと思います。ちなみに西陵なのに周辺の団地を、西郷団地と呼ぶのはこのためです。
この図を見ると、中学校密集地域で、団地と中学校区の関係がよく分かります。西陵中校区は、田上川(下流域は新川)と脇田川に挟まれた高台の丘陵地域だと分かります。
2022年1月9日
2022年01月09日(日)
職員研修です!!
1月7日(金)職員研修「不祥事防止について」がありました。学期当初にあたり,職員研修です。
はじめに,DVD「スクール・コンプライアンス」を視聴して,そのあと不祥事発生の要因は何か? 不祥事がなくならないのはどうしてか? 一人一人が心がけることはどんなことか?について,話し合いました。
2022年01月09日(日)
校歌の研究 その36 ~吉野東中学校
1.はるかに青き錦江湾 清く明るく吉野東 希望に燃えて夢を呼ぶ 勉学励み頼もしく 未来に向きて競いあわん 2.歴史ゆかしくこの台地 出会いを求む吉野東 友愛あふれ咲きかおり 礼節なりて麗しく 未来に向きて輪をひろげん 3.朝日そびゆる桜島 ともに鍛える吉野東 英気に満ちたこの笑顔 勤労練磨 耐えぬきし 未来に向きて歩みゆかん 吉野東中学校は、昭和58(1983)年に吉野中学校から分離して、鹿児島市立吉野東中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は佐藤文男、作曲は長野彰です。両者とも詳しく分かりません。
・吉野中校歌(S28制定、作詞・作曲:久保けんお)
1.高原の吉野は青空にいちばん近い ぐんと背のびをすれば 青空に両手がとどく この美しい国で なごやかな心と心を結ぶ われらわれら吉野中学 2.三つのペンをかたどった われらの校章 光る三つのかなえは奥ふかい 学びの道を朝な夕なに示す あこがれの歌声たかき所 われらわれら吉野中学 3.桜島霧島開聞とひとめに のぞむすみきった空気の中で ひるまない強い体と 知恵と誠とをみがく 寺山に偉人の跡をしのぶ われらわれら吉野中学 ・吉野小校歌(S30制定、作詞:蓑手重則、作曲:西 勇恕)
1.ときわのみどり色はえて はるかに仰ぐ桜島 あヽこの窓にこの庭に 学ぶぼくらのわたしらの 知恵もかがやく吉野校 2.歴史はかおる寺山の 西郷さんをしのびつヽ あヽこの原にこの丘に みんな仲よく手をとって 歌もとどろく吉野校 3.平和な里のあさなゆう ゆたかににおう花紅葉 あヽこの地(つち)にこの空に 強く正しくたくましく 夢もはばたく吉野校 ・吉野東小校歌(S56年以降制定、作詞:蓑手重則、作曲:武田恵喜秀)
1.朝日の光さわやかに 学びの窓に今日もまた 明るい自主の鐘が鳴る 我らは我らは吉野東小 2.西郷さんの足あとを 朝な夕なにふみしめて 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおる 我らは我らは吉野東小 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 つばさも強くたくましく 我らは我らは吉野東小 さて歌詞について。近隣の小中学校と比較してみてみたいと思います。すなわち吉野小・吉野中・吉野東小・当校の4校です。このうち吉野小と吉野東小はいずれも作詞は蓑手重則氏です。吉野中は以前紹介しました久保けんお氏です。桜島は4校とも歌います。錦江湾は吉野東小が3番で、当校が1番で歌います。他の2校にはありません。距離的にはそれほど大差ありませんが、区別をつけるためでしょうか。これらに共通し、他校に例が見られない点は吉野の西郷さんを歌い込んでいるところです。吉野中では「寺山に偉人の跡をしのぶ」、吉野小では「歴史はかおる寺山の西郷さんをしのびつつ」、吉野東小では「西郷さんの足あとを」、吉野東中では「歴史ゆかしくこの台地」です。
ちなみに吉野小学校校長室には西郷さんが使用したとされる鉈や鎌が保管されています。明治6年征韓論争で敗れ鹿児島に下野した西郷さんは、吉野の寺山に吉野開墾社を作り、生徒らと昼は開墾、夜は勉学に励みました。その際使用した物が、現在保管されているとのことです。とてもゆかりがあります。
2022年1月8日
2022年01月08日(土)
校歌の研究 その35 ~星峯中学校
1.輝くひざし この丘に 集うわれらよ 手を取りて 希望の明日を 開きゆく 自主友愛の 鐘ならし はつらつ 星峯中学校 2.山なみはるか 桜岳の 力とどろに 若人の 平和の明日を めざしつつ 正しく強く 生きてゆく たくまし 星峯中学校 3.はてなき空よ 南(みんなみ)へ 大いなる夢 はぐくみて ゆたかな明日を 築かんと 英智をみがき 学びつつ 伸びゆく 星峯中学校 星峯中学校は、昭和57(1982)年に鹿児島市立星峯中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は鮫島秀勇、作曲は津曲徹です。鮫島氏は詳しく分かりません。津曲氏については天保山中で触れました。
さて歌詞について。1番に「この丘」とあり、学校所在地の星ヶ峯ニュータウンの丘陵地域を指していると思います。住所で言えば星ヶ峯1~5丁目に当たり、5・6丁目は星ヶ峯みなみ台ともいうようです。昭和48(1973)~平成4(1992)年に整備されました。当校が57年設立なので、ニュータウン造成に併せて造られたようです。また「自主友愛の鐘ならし」と一見校歌によく出てくるフレーズですが、鐘が鳴るのではなく、鐘を鳴らすと歌い、若干ニュアンスが異なります。より主体的能動的な表現です。
2番では「桜岳(桜島の異称)の力とどろに」と歌い、詞藻豊かな表現であり、かつ音数を整えたのでしょうか(おうがく=4音、さくらじま=5音)。「とどろ(轟)に」とは、大きな音を立ててという意味なので、桜島の力強さを表現しているようです。
3番の「はてなき空よ南(みんなみ)へ」の部分が少し意味が取りづらいようです。当校HPでは続く部分が「大いなる夢はくぐみて」となっていますが「はぐくみ(育み)て」が正しいと思います。各番とも最後に、校名で締めくくっています。
2022年1月7日
2022年01月07日(金)
校歌の研究 その34 ~桜丘中学校
1.朝日に映える 山脈の 緑の風の わくろころ 心理をさぐる 若人に 明るい自主の 鐘は鳴る 桜丘中 ああ われら 2.大空あおく 海あおく ながめも清い この丘に 心とからだ きたえつつ 友愛花と 咲きかおる 桜丘中 ああ われら 3.錦江湾の 空高く はるかに仰ぐ 桜島 希望のつばさ はばたいて 輝く明日の 夢を呼ぶ 桜丘中 ああ われら 桜丘中学校は、昭和55(1980)年に鹿児島市立桜丘中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。東谷山中同様、両者のペアで作詞作曲を担当しています。
当校HPによると、本校区は、ほぼ桜ヶ丘団地だけの校区であり、一団地単独校となっているそうです。令和元(2019)年度には、創立40周年を迎えたことを一つの節目として、校歌にちなみ、「自主の鐘」を校訓に制定し、校訓を立行司第36代木村庄之助氏に書いていただいたとのことです。← 校訓「自主の鐘」
さて歌詞について。今まで何度か紹介した通り、蓑手氏は県内最多の8中の校歌を担当しており、その共通する特徴が見られます。すなわち1番「自主の鐘は鳴る」、2番「友愛花と咲きかおる」、3番「希望のつばさはばたいて」です。明和中の所で触れた通り、学校教育に関わる氏の教育理念が込められていると思います。1番では西側に位置する山々に、朝日が映えると歌い、2番では学校所在地の「桜丘」を歌い、3番では錦江湾の向こうに桜島を仰ぎ見るという構図を歌い込んでいます。2022年01月07日(金)
校歌の研究 その33 ~東谷山中学校
1.朝日の光さわやかに学びの窓に輝いて 真理を目指す若人に 明るい自主の鐘は鳴るわれらは東谷山中 2.青雲なびく魚見台銀杏の並木仰ぎつつ 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きかおるわれらは東谷山中 3.錦江湾の空高く 火を吐く山よ桜島 希望の翼はばたいて豊かな明日の夢をよぶ われらは東谷山中 東谷山中学校は、昭和55(1980)年に谷山中から分離して、鹿児島市立東谷山中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は鎌田範政です。両者については城西中、西紫原中で触れました。
作詞担当の蓑手氏はほぼ同時期に4校の校歌作詞をしています。すなわち明和中(51年設立)、坂元中(52年設立、54年制定)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。また作曲担当の鎌田氏も西紫原中(54年設立)、東谷山中(55年設立)、桜丘中(55年設立)です。東谷山中と桜丘中はペアでの制作です。初回で触れたように、鹿児島市は、51年度「鹿児島市小中学校整備計画」を定め、中学校創設ラッシュとなりました。そのため同時期に校歌を制作することとなり、同じタイミングでの校歌依頼となったようです。
さて歌詞について。今まで紹介してきたように、蓑手氏の共通の特徴を踏まえています。1番に「自主の鐘は鳴る」、2番に「友愛花と咲きかおる」、3番に「希望の翼はばたいて」とあります。2番の「魚見台」について。当校HPによると、学校所在地が、錦江湾で沿岸漁業が盛んな頃に、魚群を見張る最適な場所であったことから「魚見ヶ原」の地名がついたとされ、「魚見ヶ原の丘」と呼ばれているようです。そこで校歌では「魚見台」と表現されたようです。
2022年1月6日
2022年01月06日(木)
校歌の研究 その32 ~西紫原中学校
1.るり晴天の 大空に 光りて昇る 朝の日の 輝く知識 求む子の ああ わが母校 西紫原中学校 2.錦江湾の とどろきて 絶ゆることなく 打つ波の 生きぬく力 つくる子の ああ わが母校 西紫原中学校 3.火を噴く山の 桜島 天の柱と 立つ煙 理想を高く かかぐ子の ああ わが母校 西紫原中学校 当校HPによると、西紫原中学校は、昭和54(1979)年に紫原中学校を母体にして、南中学校の一部を吸収して、鹿児島市立西紫原中学校として創設されました。校歌制定年は不明です。作詞は椋鳩十、作曲は鎌田範政です。椋鳩十氏は前回触れました。
←作曲:鎌田範政氏
鎌田氏は、昭和22(1937)年に鹿児島市で生まれ、鹿児島大学卒業後、県内の小・中・高校教諭を経て鹿児島大学教育学部に着任され、のち同大教授を務められました。県音楽教育連盟会長、日本教育音楽協会鹿児島支部長、県少年少女合唱連盟理事長などを歴任され、30年間にわたって鹿児島市立少年合唱隊の指揮者を務めたほか、南日本音楽コンクールや南日本ジュニアピアノコンクールの審査員長も務められました。平成20(2008)年度地域文化功労者文部科学大臣表彰、11年度県民表彰されました。平成26(2014)年死去されました。77歳でした。
さて歌詞についてですが、前回の紫原中の回でも紹介しましたが、椋鳩十氏は綿密に取材ノート(椋鳩十文学記念館所蔵)を残しています。特に当校については8枚もあります。2枚目に学校像(1創造、2健康、男子(?)、明朗、3協力)、生徒(真理創造、心身鍛練、相互敬愛)とあります。椋氏が当校を訪問した際に、学校側から聞いた学校像と生徒の教育方針ではないかと思います。
2枚目を除く、1~8枚目は校歌の歌詞の推敲の過程を示しており、後半になるに従い完成原稿です。8枚目(下掲)は「西紫(原)中学校々歌」と表題が付いており最終案です。
1枚目には「るり晴天の大空に」とあり、現校歌の1番1節目の歌詞が早くも現れ、最初の着想を活かした格好です。錦江湾、桜島を使う構想も最初からあったことが分かります。瑠璃色は紫味がかった青色で、空の形容に使われるので、校名と大空に掛けて、椋氏のイメージにぴったりだったのだと思います。
1番2節も「輝く朝の日の光り」「朝日大きくのぼりたり」と現校歌とほぼ同様で、7枚目に現校歌と同じ歌詞が完成します。1番については最初から構想がほぼできていたようです。
1番3節の「輝く知識もとむ子の」は、2番にあった「知識」が1番に移り、6枚目で完成します。
1~3番4、5節の校名での締めくくりの部分は、語順で悩み、7枚目に現行の形に落ち着きました。
2番は初めは錦江湾の海底を詠もうとしますが、6枚目からは波に変わり、8枚目に2番1節「錦江湾のとどろきて」、7枚目に2番2節「絶ゆることなく打つ波の」で完成します。
2番3節「生きぬく力つくる子の」は3番から移り、6枚目に完成します。
3番1節の「火を噴く山の桜島」のフレーズは4枚目で完成し、途中「火をはく」と迷いますが、紫原中と同文を避けるためか、元に戻します。
2節の「天の柱と立つ煙」は6枚目に完成しますが、天の柱がどういう意味かが謎です。日本神話の天御柱(あめのみはしら)か、自然現象のサンピラー(太陽柱)、光茫、日足などかと思いますが、ここでは素直に桜島の噴火の様を表現していると解釈した方が良さそうです。椋氏ならではの独自表現かと思います。
3節「理想も高くかがく子の」は1番から「理想」を移して6枚目で完成です。4・5枚目で悩み、6・7枚目でほぼ完成させたようです。5枚目には、何回も推敲した跡が見られます。
2022年01月06日(木)
校歌の研究 その31 ~坂元中学校
1.歴史にかおる矢上城 学びの窓に眉あげて 真理をさぐる若人に 向学自主の鐘は鳴る 2.高原広く澄むところ 緑の風もさわやかに 心をみがき身をきたえ 友愛花と咲きにおう 3.仰げばはるか青雲に 火をはく山よ 桜島 希望も強くたくましく はばたく坂元中学校 当校HPによると、坂元中学校は、昭和54(1979)年に創設されました。学校創設と同年に校歌が制定されました。作詞は蓑手重則、作曲は武田恵喜秀です。両者については、それぞれ城西中、清水中で触れました。
当校所在地は特異な歴史的環境があり、当校HPに以下のような記述があります。
1坂元の地名
催馬楽(せばる)の旧村社日枝神社は近江の国の日枝神社の分霊を奉祀し、彼の地名に習い村を「坂元」と呼ぶと伝えられている。
2催馬楽城(矢上城ともいう)
文永4年~興国5年(77年間)南朝の忠臣矢上高純の居城で南北朝のころ、矢上左右衛門高純が終始一貫南朝に勤王し、猛烈に島津氏と戦って玉砕した戦場でその城跡が本校の前にある。
3催馬楽碑
奈良時代から朝廷の催馬楽(さいばら)という音楽を奏した隼人が住んだところと伝えられている。
鹿児島郡司矢上氏の歴史と坂元の由来、催馬楽について、本校HP「学校周辺の史跡」で触れましたが、少なくとも 100年ほど当地を支配した矢上氏の歴史や伝統が根付いていることは確かだと思います。そのため当校や坂元小、坂元台小の校歌に、矢上氏(城)について詠み込まれています。特に坂元小校歌は作詞が同じ蓑手氏で、当校の4年前の昭和50(1975)年制定で内容もよく似ています。坂元小学校校歌(作詞:蓑手重則 作曲:郡山 脩)
1.矢上の城のあとどころ 朝日に映える学び舎に きょうも明るい眉あげて 豊かな知恵の実をひろう 坂元われらまことの子 2.山なみ遠くめぐらせて 緑の風のわくところ みんな仲よく肩組んで やさしい愛の輪をむすぶ 坂元われらめぐみの子 3.錦江湾の空たかく 火をはく島よ桜島 つばさ大きくはばたいて かがやくあすの夢をよぶ 坂元われらのぞみの子 さて歌詞について。1番に「歴史にかおる矢上城」とあり、地域の歴史を踏まえ、後半「自主の鐘は鳴る」と蓑手氏おなじみのフレーズで結んでおり、2番には「友愛花と咲きにおう」、3番には「希望も~はばたく」と共通のワードが使われています。2番の「高原」は学校周辺一帯の高台のことを指すのでしょうか。3番では火をはく山桜島を歌い込んでいます。
2022年1月5日
2022年01月05日(水)
校歌の研究 その30 ~明和中学校
1.朝日に映える桜島 学びの窓に仰ぎつつ 真理をめざす今日もまた 生命に深くこだまして 明和よ自主の鐘は鳴る 2.山脈あおく 海あおく 南風ひかる丘の上 心を磨き 身を鍛え 生命も清く触れあって 明和よ愛の花かおる 3.錦江湾の空はるか 白雲絶えず湧くところ 希望のつばさたくましく 生命のかぎりはばたいて 明和よ明日の夢を呼ぶ 当校HPによると、明和中学校は、昭和51(1976)年に、城西中学校から分離して創設されました。61(1986)年には武岡中学校が分離します。分離直前は総生徒数2000名以上と、日本でも最大規模だったそうです。校歌制定年は不明です。作詞は蓑手重則、作曲は藤島昌壽(まさひさ)です。蓑手氏については、城西中学校の所で触れました。
← 作曲担当の藤島昌壽氏です。
藤島氏について詳しくは分かりませんが、昭和10(1935)年に生まれ、令和2(2020)年に亡くなりました。鹿児島出身の作曲家です。鹿児島女子高では多くの合唱曲を作られたそうです。平成22(2010)年には日置市市民歌を作曲されています。 『我が人生に悔いはなかりき-蓑手重則・瑛子追悼文集-』「校歌に寄せて-校歌集」によると、当校の校歌作成の事情が分かります。蓑手氏は鹿大で国文学を講じ、小中高校の国語教育を指導していた関係で、各所から依頼され校歌を制作されたとのことです。当校についても当時の南郷校長の委嘱によるとのことです。校歌で「生命」という言葉を反復強調しているのは、「小学生の頃から両親の手伝いをしながらいろいろな作物や家畜を育てて、その生命の神秘さや尊厳さを痛切に体験していたから」ということです。校歌には1番「生命に深くこだまして」、2番「生命も清く触れあって」、3番「生命のかぎりはばたいて」とあります。また1番「自主」、2番「協力」、3番「希望」を主題としており、「これらの精神は生徒ひとりひとりの具体的な生命とこだましふれあい高まらなければ正しくは生かされません」とのことです。
1番の「自主」について。学校教育は生徒ひとりひとりの能力や性格に即して自主的な協力的な解決的な学習活動を展開して、生徒の主体的な学習態度を育成するところであり、そうでなければ生命と深くこだまする人間を育成することはできないでしょう。
2番の「協力」について。人間は本来家庭や社会を構成して、相互に仲よく話し合い助け合って生きていかなければならない。氏は昭和26(1951)年鹿大代用附属の伊敷中学校主事として、研究主題「自発学習」をかかげ、男女仲よく話し合い助け合う生活態度を育成するなど3点を示しました。そこで男女同数の自然グループを編成し、学習活動を行わせたそうです。2番に「生命も清く触れあって明和よ愛の花かおる」とあるように、男女生徒が仲よく触れあうことで、学校教育の民主化が浸透していくと考えていたようです。本稿はここで終わっており未完のようです。
さて改めて歌詞について見てみます。今まで触れたように蓑手氏は県内最多8中の校歌を作詞しています。その共通するところは、自主の鐘、友愛の花、希望の翼です。桜島と錦江湾の定番の景観も詠み込んでいます。2022年01月05日(水)
校歌の研究 その29 ~緑丘中学校
1.けむりを空に噴き上げて いのちを燃やす桜島 ああその雄姿のぞみつつ 自ら学び励むもの 中学われらに力あり 2.緑丘のあけくれに 友愛花と咲くところ ああはつらつの眉上げて 真理の道を進むもの 中学われらに誇りあり 3.したたる汗に健康の よろこび歌う若い声 ああその意気にこぞりつつ かがやく明日をめざすもの 中学われらに使命あり 当校HPによると、緑丘中学校は、昭和49(1974)年に創設されました。校歌は2年後の51(1976)年に制定されました。作詞は高城俊男、作曲は吉崎清富です。高城氏については、長田中学校の所で触れました。
吉崎氏は、ウィキペディアによると、日本の現代音楽作家です。昭和15(1940)年秋田県大館市生まれ。中学卒業と同時に上京し、桜美林高校、東京芸術大学、同大学院を修了しました。作曲を下総皖一、石桁眞禮生に師事し、ベルリン国立音楽大学に留学し、国際コンクールで入賞を果たします。同大卒業後ベルリン工科大学電子音楽スタジオ研究員に着任。鹿児島大学講師着任後、東京学芸大学教授、国立音楽大学講師、鹿児島大学教授を歴任し、令和3(2021)年瑞宝中綬章を受章されました。三枝、西村、松平、水野氏らと結成した「オーケストラ・プロジェクト」、自らが主宰する作曲グループ「パッケージ21」等において、ユニークで鮮烈な作品を多数発表し、NHK電子音楽スタジオ等からの委嘱による電子音響作品やコンピュータ音楽作品も手掛け、実験精神に溢れながらも正統な現代作曲技法に裏打ちされた作風は、極めて独創的な音楽世界を確立したものとして高く評価されているそうです。
さて歌詞について。作詞担当の高城氏は県内5中、長田中・河頭中・桜島中・和田中・当校の作詞をしています。共通する特徴としては、1番に桜島、2番に錦江湾を歌い、最後に校名でしめくくるというパターンが多いようです。ただ錦江湾より離れている河頭中は甲突川を歌い、当校は緑丘を歌っています。また古語を好んで使う傾向もあります。当校では2番に「あけくれに~真理の道を進む」とあり、朝夕問わず、真理探究に励んでいくという意味合いでしょうか。同じく2番の「友愛花と咲くところ」もよく出てくる表現です。3番では「かがやく明日をめざす」と郷土建設を歌います。緑丘中は、第2次ベビーブーム(1970年代初頭)、伊敷団地造成(1966から1971年)による人口急増の受け皿として、創設されたものと思われます。
2022年1月4日
2022年01月04日(火)
校歌の研究 その28 ~紫原中学校
1.高原すでに明けそめて み空に光るあけの星 自主創造は人と世に 夜明けを呼ぶと語りかく 夜明けを呼ぶ紫原中 2.のぼる朝日の光りの矢 黄金に染めて薩摩潟 深き知徳は人と世に 光りを呼ぶと語りかく 光りを呼ぶ紫原中 3.中天高くま向いに 火をはく山の桜島 高き理想は人と世に 未来を呼ぶと語りかく 未来を呼ぶ紫原中 当校HPによると、紫原中学校は、昭和42(1967)年に鴨池中学校から分離独立し、鹿児島市立紫原中学校として創設されました。校歌は51(1976)年に制定されました。作詞は椋鳩十、作曲は武田恵喜秀です。椋鳩十氏は言わずと知れた日本を代表する児童文学作家です。武田氏は清水中学校の所でも紹介しました。『武田恵喜秀の88年 ピアノを愛して』によると、「(武田氏は)校歌作りの名人でもあった。作詞は作家の椋鳩十、詩人の副田凱馬、蓑手重則らとコンビを組んだ。武田が作曲した校歌は実に 191曲。県内の学校のおよそ2割にもおよぶ数になる」とあり、「とくに椋は学校からの作詞の依頼がくると「作曲は武田先生だよ」という条件で受けたらしい」とあって、両者の関係の親密さが分かります。
← 作詞担当の椋鳩十氏です。
作詞担当の椋鳩十について、椋鳩十文学記念館編『椋鳩十の生涯』『椋鳩十の略歴』で見てみたいと思います。
椋鳩十(むくはとじゅう)は、明治38(1905)年長野県で誕生。本名は久保田彦穂(くぼたひこほ)。日本の小説家、児童文学作家、鹿児島県立図書館長、教員。日本における動物文学の代表的人物です。地元の旧制中学を経て、大正13(1924)年法政大学文学部国文科卒業後、昭和5(1930)年鹿児島の中種子高等小学校に代用教員として赴任しますが、夏にふんどし1つで授業をしたため3ヶ月で解雇となり、姉清志(県立病院第1号女医・眼科)の紹介により、同県加治木高等女学校(現在の加治木高校)の国語教師に着任しました。仕事の傍ら作家活動を続け、8年に最初の小説『山窩調』を自費出版し、この時初めて椋鳩十のペンネームを使いました。
戦後昭和22(1947)年から41年までの19年間、鹿児島県立図書館長を務めました。館長として、GHQによる軍国主義的図書館資料の排除命令を、書庫に封印する事を条件に回避しましたが、財政難によって図書館再建は困難を伴いました。そこで、第二次世界大戦で崩壊した図書館機能の再建のため、図書館学で「鹿児島方式」と呼ばれる、県立図書館と市町村図書館との一体的システム化を行い、のちの図書館ネットワークの原型となるものを構築しました。また、創作と並行して1958年に奄美分館設置、1960年に読書運動である『母と子の20分間読書』運動を推進し、1967年から1978年までは鹿児島女子短期大学教授を務めました。なお、鹿児島県内の小中学校・高校の校歌に詩を提供しています。昭和62(1987)年12月に肺炎のため逝去、享年82歳でした。
上谷順三郎「椋鳩十作詞の校歌についての研究」によると、県内には椋作詞の校歌は57校あり、その内収集できた48校の歌詞分析を行ったそうです。道徳的内容(清い、明るい、理想、希望、美しい、校訓)。名詞(肩(組む)、光、心、知識)。動詞(学ぶ、輝く、集う、育つ、伸びる、励む、若い等)。色(金、紅、瑠璃等)。その他(われ、われら等子どもの表現、若き芽、若人、「○○の子」、校名を歌うのも多い)。自然(空、山、川、朝、虹、星)。生物(花、芽、珊瑚樹、そてつ、アフチ)である。椋は依頼された学校を何回も訪れ取材したと言われ、そのため地域の自然が豊かに描かれているそうです。その際の取材ノートが何十冊も残されています。年代別では、昭和20年代(7校)、30年代(25校)、40年代(5校)、50年代(1校)、60年代(3校)、不明10校だそうです。校歌の作詞は県立図書館長就任後の22年以降になされ、新聞連載や南日本文化賞受賞(30年)等地元鹿児島での活動の活発化とともに作詞依頼が増えたようです。作詞依頼の理由としては、県立図書館長だったから、地元にゆかりのある作家だったからだそうです。椋氏の教育観から、常に子どもとの関わりがあり、子ども達への願いを校歌に込めたのではないかとされます。
さて当校の歌詞について。1番に高原(紫原台地か)、2番に薩摩潟(錦江湾)、3番に桜島の定番を配置します。歌詞の構造としては、1番であけの星が夜明けを呼ぶ、2番で深き知徳が光(朝日)を呼ぶ、3番で高き理想が未来を呼ぶと歌います。ここであけの星(明けの明星=金星)が、夜明けを呼ぶというモチーフが、県内で5校ほど確認できます。椋作詞の東高校校歌では少しニュアンスが違いますが、「星満天に輝きて東天ひそかに朝を呼ぶ」とあります。このメルヘンチックで、童話的な表現が椋鳩十作詞の真骨頂だと思いますがどうでしょうか。2022年01月04日(火)
校歌の研究 その27 ~南中学校
1.南に開く錦江の 潮の香かようわが学園(その)に 風は緑にかぎりなき 真理の道を究めんと 集う瞳の色澄めり 2.紫原に雲高く 日は輝けりわが校庭(にわ)に 闘魂いよよ火と燃えて 心も身をも鍛えんと 競う力の花薫る 3.桜島山(しまやま)こめて夕ばえの 紅つつむ学び舎に 自主協調の誠もて 日本のあすを築かんと 結ぶ理想の夢豊か 当校HPによると、南中学校は、昭和34(1959)年に鴨池中学校から分離独立し、鹿児島市立南中学校として創設されました。そのため校章は鴨の形をかたどっているそうです。42(1967)年に校歌が制定されました。作詞は富永栄蔵、作曲は隈元清之助です。両者ともよく分かりません。当時の国語・音楽教諭だったかもしれません。
さて歌詞について。1番に「錦江」、3番に「桜島山」と定番の景観を配置します。ただ桜島山を「しまやま」と歌うのは珍しいです。2番には「紫原」を歌います。これは当校の北西側に位置する標高70mほどの「紫原台地」を指しています。紫原は「むらさきばる」と読み、鹿児島で「~はる」地名は開墾地で、台地の場合が多いです。一説には北の田上村、東の郡元村、南西の宇宿村の村境に位置していることに由来しているといいます。また紫色の染料である紫草が群生していたためとも言われます。中世頃よりしばしば戦場となり、明治の西南戦争でも激戦地となりました。戦後昭和31(1956)年に紫原団地の造成が始まり、鹿児島市内の団地造成の先駆けとなり、41年にほぼ完成しました。周辺地域の人口急増に伴い当校他中学校の設立につながったと思われます。3番では「日本の明日を築かんと」と歌われ、高度経済成長を象徴する歌詞となっています。
2021年12月28日
2021年12月28日(火)
県いじめ問題子供サミットにオンラインで参加しました!!
12月27日(月)に本校で,令和3年度鹿児島県いじめ問題子供サミットに,本校生徒会で,オンラインで参加しました。詳しくは以下のPDFファイルを見てください。
鹿児島県いじめ問題子供サミット実施要項[PDF:298KB]
県内60校ほど参加する中,3~4校で1グループを作り,オンラインで交流します。高校は参加数が少なく,本校は垂水高校と交流しました。
はじめに事例紹介(清水中,伊集院中,枕崎中,錦江湾高校等計9校)がありました。そのあと「いじめ防止について議論しよう」というテーマで,話し合いました。1.いじめ問題の難しさについて(5分)。2.学校ごとに話し合ってまとめる(5分)。3.学校ごとにまとめたことを,代表者が発表する(7分)。という流れです。最後に感想をそれぞれまとめました。
生徒の感想から。
今回いじめ問題子供サミットに参加して,いじめについて考える機会ができて良かったです。参加した9校の取り組みを聞いて,本校でも出来そうな活動があったり,取り入れたいなと思う活動がありました。生徒会として,学校でのいじめをなくすため,起こらないように,さまざまな活動をしていきたいと思いました。今回いじめ問題子供サミットに参加することができて良かったです。
いじめは,いじめている人の背景も考えていかないといけないと思いました。みんないじめられている子だけがかわいそうと思っていると思います。しかし,性格は,遺伝が半分,環境が半分つくります。なので,いじめをなくすには,環境を大きく変える必要があると思います。
他校の意見や取り組みを取り入れることができ,とても参考になった。当校でも,先生方と話し合いを取り入れることができるものを実施していきたいと思います。いろんな取り組みを聞いて,自分たちが,より良くできる方法がたくさんでてきたので,取り入れるだけではなく,今の当校の状況によってすこし変えていきたいと思います。あらためて,いじめを防止するためには,生徒会の力がいるなとおもいました。
2021年12月28日(火)
校歌の研究 その26 ~鹿大附属中学校
1.るり色の 風に明けゆく南国の 希望の空よ 見よ見よ集えるは 清新の生命燃え立つ若き花 意気あり鹿大付属中 2.緑樹の 蔭にさゆらぎ薫りたつ 歴史の槌よ 見よ見よあふるるは 友愛の宴楽しむ若き夢 自治あり鹿大付属中 3.火の山の 姿そびゆる青空に えがくは何ぞ 見よ見よはばたくは 蛍雪の理想追いゆく若き鷹 栄あり鹿大付属中 鹿児島大学附属中学校は、昭和22(1947)年に、鹿児島師範学校男子部附属中、同女子部附属中、鹿児島青年師範学校附属中の3校が創設された。23年に男女が統合され、24年に新制鹿児島大学の発足により改称され、26年に同大学教育学部附属中学校となりました。30年に校歌が制定されました。作詞は脇太一、作曲は柳沢浩です。
作詞担当の脇氏は、ウィキペディアによると、明治33(1900)年香川県に生まれ、昭和44(1969)年死去された、日本の教育者および作詞家です。大正13(1924)年に東京高等師範学校を卒業され、28歳の時に恩師に誘われて大連(中国遼東半島南部)に渡りました。教鞭のかたわら俳句、短歌、詩、小説、脚本などの作品を創作されました。敗戦後日本に引き揚げ、昭和22(1947)年坂出市立林田中学校校長に就任されました。26年NHK「ラジオ体操の歌」に応募、1万点余りの作品から最優秀に選ばれ(本曲は2代目の「ラジオ体操の歌」となる。現行版とは異なる)、作詞家として一躍有名になり、全国の小学校、中学校、高等学校から作詞を依頼されたとのことです。
さて歌詞について。令和2年10月7日付南日本新聞「校歌の風景」25に、当校校歌の紹介があり、「校歌の詞と曲は1955年、県内では珍しく、全国から公募された。歌詞は2代目ラジオ体操の歌を作った香川県の脇太一氏が担当、多くの合唱曲を残した神奈川の柳沢浩氏が作曲した。県外の2人が手掛けた校歌には、学校周辺の情景などがほとんど登場しない代わりに、「花」「夢」「鷹」など時が流れても色あせない言葉が並ぶ。教員OBの一人は、地理的、歴史的な束縛を解かれた斬新な歌詞と語る」とあります。また当校の運動会の種目に「若き花」(女子ムカデ競争)、「若き鷹」(男子棒倒し)という校歌の1番と3番に使われた歌詞を冠する種目があるそうです。しかし今年(2020年)は新型コロナで中止となりましたが、新たに玉入れを考案し、2番にちなみ「若き夢」としたそうです。校歌の伝統を大事にする校風がうかがえます。氏の作詞された校歌のうち、出身の香川県以外の中学校の校歌と併せて考えてみると、共通するのは、歌詞の最後に校名を繰り返す、「見よ見よ」「若き」「栄え」「希望」「理想」などです。
また脇氏が校歌作詞を担当された、県内の霧島市立向花小学校について、同校HPを見ると、公募から制定、発表にいたる経緯が分かります。昭和31年9~12月に全国に校歌の募集をし、12月15日に選定、翌年2月12日に学芸会で校歌の発表会を行ったそうです。その際作曲担当の鹿大教育学部武田恵喜秀氏も来校されたようです。応募された歌詞原稿が校長室に展示されており、それを見ると、選定委員による歌詞の修正の跡が分かり、「一等」という鉛筆の走り書きが、校歌が誕生した瞬間のようで、生々しささえ感じるということです。
向花小の校長室に展示されている,歌詞原稿です。
歌詞は、全体的にはとても詩的で味わい深く、半面深淵で意味が取りづらい所もあるかと思います。各歌詞の構造は、「~よ」(と呼びかけ)、「見よ見よ」(さあ、見なさい!)(これは)~「若き花、~夢、~翼」(それぞれ生徒を示し、1年・2年・3年生だそうです)だと歌い、最後に「鹿大附属中」と結ぶ。1番では「るり色の~空よ」「見よ見よ」「集えるは」「若き花」だ。気概ある、鹿大附属中だ。2番では「緑樹の~歴史の槌よ(ここの解釈は難しいが、今作られる当校の歴史や伝統を指すか)」「見よ見よ」「あふるるは」「若き夢」だ。自治の気風ある、鹿大附属中だ。3番では「火の山(桜島)の~何ぞ」「見よ見よ」「はばたくは」「若き鷹」だ。栄えあれ、鹿大附属中だ。唯一鹿児島のシンボル桜島(あえて火の山と歌う)を歌う所がとてもいい効果をもたらしていると思います。
2021年12月25日
2021年12月25日(土)
校歌の研究 その25 ~喜入中学校
旧校歌 作詞:久保田彦穂(椋鳩十) 作曲:迫田武資
1.秋はうるわし校庭の 南京はぜの夢の色 心にそめて学ぶ子は 理想大きく育ち行く 2.清き流れの八幡川 夕日淡く影うつす 知徳の泉汲む子らは 未来の花と育ち行く 3.愛の林の待人山 額の汗を払う風 勤労めでて学ぶ子は 郷土の力と育ち行く 新校歌 作詞:大保純義 作曲:新徳美知二
1.潮の香薫る錦江湾 学びの庭に 友愛の 誓いも新たに 集うとき 自律の鐘は 鳴り渡る 自律の鐘は 鳴り渡る ああ われら 喜入中 2.流れ豊けき 八幡川 清き川面に 真実の 道を尋ねて 励むとき 研学の炎は 燃えさかる 研学の炎は 燃えさかる ああ われら 喜入中 3.紫雲たなびく 桜島 映ゆる雄姿に 高遠な 理想をかかげ 歩むとき 文化の園は 輝きぬ 文化の園は 輝きぬ ああ われら 喜入中 『喜入町郷土誌』によると、喜入中学校は、喜入村立喜入中学校として、旧喜入青年学校跡地に、昭和22(1947)年創設されました。喜入小・喜入青年学校を利用して校舎としました。31年には町制施行により喜入町立喜入中学校となり、47年に町内3中(喜入・瀬々串・生見)が統合し、平成16(2004)年に鹿児島市立となりました。ここまで、「昭和22年組」~学校教育法施行に伴い昭和22年(甲南・天保山は23年)に誕生した、新制中学校24校を紹介してきました。市内40中の6割がこの年に誕生しました。
当校は町立化した後、33年に旧校歌(作詞久保田彦穂(椋鳩十)、作曲迫田武資)が制定され、3中統合後の新喜入中学校成立後、49年に現校歌が制定されました。作詞は大保純義、作曲は新徳美知二です。作詞・作曲担当の大保氏・新徳氏についてはよく分かりません。当校の国語・音楽教諭だったかもしれません。旧校歌の椋鳩十は、東高校校歌の作詞も担当されている、児童文学者として著名な方です。また作曲担当の迫田氏は黒髪中のところで触れましたが、県内の多数の校歌を作曲されています。旧喜入中、根占中、宮小、伊敷小、徳光小、住吉小、三島小、羽月小、南永小、伊作小、漆小、荒川小、中名小ほか鹿屋市民歌や十島のうた等です。
さて歌詞について。まず旧校歌は1番に「校庭の南京はぜ」とあり、椋鳩十はその景色を見たのだろうと思います。2番では「愛の林の待人山」とあり、『喜入町郷土誌』にある「待集(まっと)山」のことであれば、当校より南西に位置する、喜入CCの東側にある山のことと思われます。しかしなぜ「愛の林」なのか不明です。何か言い伝えがあるのでしょうか。3番では八幡川が出てきます。新校歌では、1番に錦江湾、2番に八幡川、3番に桜島が出てきます。このうち八幡川は喜入第一の河川で、中心部を流れます。ただ、日本遺産に指定された、給黎(きいれ)城跡を含む「喜入旧麓(もとふもと)地区」等歴史的景観を読み込まないのは少しもったいない感じがします。ちなみに喜入は初め旧麓地区が中心でしたが,江戸初期に現喜入小(地頭仮屋跡)辺りに、麓(郷の中心地)を移しています。喜入小の裏山が城山(戦時に籠もる所)で、地元では琵琶山(地図中緑で囲んでいる所)と呼ばれており、現在喜入総合体育館があります。南北を八幡川と愛宕川の2河川でカバーされており、防衛上適地とされたためでしょうか。あるいは海に近く、交通上・交易上有利とされたためでしょうか。旧麓地区は武家屋敷跡が残り、旧観を残しており、風情があります。2番の「自律の鐘は鳴り渡る」は校歌によく見られるワードで、3番の「文化の園」は独特な表現と思います。なお、当校出身の人の話では、朝の登校時間に、校歌の1番が流れ、「自律の鐘は鳴り渡る」を聞くと、ああもう遅刻だと観念したそうです。
2021年12月24日
2021年12月24日(金)
2学期終業式です!!
本日2学期終業式がありました。今回もリモートで実施されました。
終業式に先立って,校内放送で表彰がありました。
(1) サービス接遇検定 2級 2年
(2) ハングル能力検定 4級 2年
(3) 美術部 第72回鹿児島県高校美術展 奨励賞 1人 入選4人
(4) K1グランプリ(漢字) クラス優勝(1年2組)
個人優勝(3位まで)
(5) 2学期クラスマッチ 総合優勝 2年2組
はじめに,校長先生の話。第九「歓喜の歌」の話から,ベートーベンについて。1770年生まれ,56歳でなくなった。第九が完成するまでの道のりはやさしいものではありませんでした。様々な苦悩の中で完成された曲です。そういった苦悩があったからこそ,素晴らしい曲ができた。皆さんもここまでいろんな苦労があったと思いますが,だからこそこれからの試練に立ち向かえると思います。苦労は次のステップアップのためのエネルギーを貯める時だと考えて欲しいと思います。
ついで,生徒指導部から。NTTドコモの情報モラルの講演の感想から。SNSを巡るさまざまなトラブルの話。知らない人を信用しずきてはいけない。SNSで知り合って,県外に行って補導されるケースあり。冬休み中の心得について。スマホの利用,交通安全事故防止について。不審者遭遇事案多発している。明るい道を通りましょう。音楽聴きながら歩いていると,周りに注意がいかないので気を付ける,などでした。最後に,THE BLUE HEARTSの甲本ヒロトさんの言葉の紹介。学校に居場所がない子にどう答えますかの質問に,居場所はあるよ,席がある。それでいいじゃない。学校に友達がいなくて気にすることはないよ。学校は,けんかしないで平穏無事に生活する,そういう訓練の場所だから。(居場所がないことを気にしすぎる子に対しての言葉だそうです)
ついで進路指導部から。今年頑張ったこと,一番思い出に残っていること,失敗したことは何ですか。冬休み中にこの1年を振り返ってみてください。長期の目標と短期の目標を考えてみてください。短期の目標は実行しやすいと思います。1・2年生は,冬休み明けに進路希望調査があります。冬休みの間に進路についてよく考えて,進路希望を書いてください。
最後に,保健部から。2つのことについて。一つは,新型コロナについて。オミクロン株が,関東関西で市中感染が見られ,年末年始警戒が必要とのこと。休み中の行動について気を付け,年明けのLHRで,確認する場合があるかも知れないとのこと。夕方のニュースを毎日見て,新型コロナの状況について,関心をもってください。
二つ目は,保健室利用について。保健室は本当に具合が悪い人が利用するところなので,利用する人は,授業の前に,教科の先生に断ってから保健室に行くこと。友達に代理で言ってもらうではなく,本人が申し出ること。保健室利用のルールを守ること。
生徒は、各教室で,リモートで視聴しました。終業式で聞いた話を,参考にいかしてください。それでは体調管理に気を付けて,来年元気に登校してきてください。
2021年12月23日
2021年12月23日(木)
クラスマッチです!!
本日終日,2学期クラスマッチが行われました。今回は男子はバスケ,女子はドッヂボール,バドミントンでした。
激しい男子バスケです。優勝したのは3年1組でした。
女子ドッヂボールは,2年2組Aチームの優勝でした。
女子バドミントンは,2年1組の優勝でした。明日終業式で,クラスマッチの表彰があります。総合優勝もその時に発表です。
今日は天気も良く,それほど寒くもなく,絶好のクラスマッチ日和でした。
2021年12月23日(木)
校歌の研究 その24 ~松元中学校
1.緑の風に朝明けて 明るく匂う学び舎に向学の意気はつらつと 自主の鐘の音高くなる ああ松元中学校 2.松元川のせせらぎに 高原清き茶の園に 進取の気性受け継いで 友愛花と咲き薫る ああ松3. 3.青雲あるか湧くかなた 朝夕あおぐ桜島 希望の翼はばたいて 平和の郷土打ち立てん ああ松元中学校 『松元町郷土誌』によると、松元中学校は、上伊集院村立上伊集院中学校として昭和22(1947)年創設されました。苦しい経済状況の中での発足で、財源捻出には苦労し、村議会で敷地購入費、校舎建設費は村民の寄付によることとし、住民税の10倍ということでした。チョークも不足し、小学校の使い残りの短いのをもらってきたり、用紙類も、すぐ破れる再生の悪質のザラ紙だったそうです。
35年には町制施行により松元町立松元中学校となり、40年には生徒増に伴い校舎を現住所に移転し、平成16(2004)年に鹿児島市立となりました。町立化した35年に校歌が制定されました。作詞は蓑手素秋、作曲は捗秀豊です。蓑手氏については城西中のところで触れました。
作曲担当の捗氏は松元町内の小中学校の校歌を作曲しています。ウィキペディアによると、校訓が1番「向学」、2番「進取」、3番「希望」の順に歌われ、3番では桜島も歌われているが、桜島は実際は見ることはできないそうです。
さて歌詞について。作詞担当の蓑手氏は今まで述べてきたように、市内最多8中の校歌を担当しています。1番に「自主の鐘鳴る」、2番に「友愛花と咲き薫る」、3番に「希望の翼はばたいて」と共通のワードを歌い込んでいます。ローカル色としては、松元川(松元流域を流れる下谷口川の異称でしょうか)、茶の園を詠んでいます。下の地図のように,松元町はお茶所として有名です。茶畑に囲まれた原風景です。